ティーン時代からトップモデルとして活躍した佐藤えつこさんは今、アクセサリーデザイナーとしてファッション界で認められる存在となっっています。彼女の作るアクセサリーや、ベルト、バッグなどのファッション小物は全国のセレクトショップで引く手あまた。モデルという華のある職業を捨ててまでもなったデザイナー。どんな数奇な運命をたどって今に行き着いたのかを語っていただきました。

私が生まれた頃、家族はシカゴに住んでいました。父がINSTITUTE(大学院)でリトグラフの勉強をして、そのままアメリカで創作活動をしていたためです。父は日本画とリトグラフを組み合わせた世界で唯一の画家です。シカゴ、ボストン、NYと移り住んで、6才までアメリカで暮らしました。プレスクール(6才)卒業までいたので、英語を話していたはずなのですが、今は跡形も無くなってしまいました(笑)。
父の仕事の影響で、絵と深く繋がった幼少時代だったと思います。NYマンハッタンだけで50あると言われる有名美術館の8割に連れられて行きましたし、家の中では父、兄、私の3人が常に自由に絵を描いていました。
私が6才のときに日本へ引っ越しました。父の実家の北海道の羅臼で、小2の終わりまで生活しました。冬は流氷がやってきて、とにかく寒かった記憶があります。クマもキツネもいました。この頃は図工が得意で、コンクールではしばしば金賞を取っていました。
そして小3になるときに、東京・豊島区の母の実家の近くに越して来ました。このとき父が大失敗。私と兄がアメリカで受賞した ベスト・アーティスト賞≠フ賞状を駅に置き忘れて、無くしてしまったのです。その後、小中高ともう少し豊島区で過ごしました。中学校では一応美術部に所属していましたが、楽だから入ったようなものでほとんど帰宅部でした。でも美術の成績は良かったですよ。体育も(笑)。
というような日々を過ごしていた私に、最初の転機が訪れます。プチセブンの専属モデルになったのです。

プチセブンへの応募は友達が出しました。中2の終わりでした。私は全く興味が無く、プチセブンの存在すら知らなかった(失礼!)のです。「友達が一緒に出していい?」と言うからOKというやる気のなさでした。
だから、編集部から最初に連絡があったときはお断りをしたんです。しかし編集部の方から、「事務所に所属せず、フリーでもいいから、少しだけやってみよう」と説得されて、始めることになりました。ところが、撮影スケジュールが入り出すと整理仕切れなくなり、中3になる頃からモデル事務所にお世話になることになりました。
順調に撮影も入り、1年たった頃、編集長から「おめでとう」と声をかけられました。誕生日でもないのになんのことかと思っていたら、初めての表紙が決まったとのことでした。当時の私は、この日に撮影があるから行くというだけで、撮影の内容がなんなのか全く気にしていませんでした。だから表紙の撮影だということも雑誌ができて初めて知るという具合でした(笑)。
そんなこんなで14才から20才まで約6年間プチセブンでモデルをやりました。だから高校時代は撮影スケジュールに追われてあまり思い出がありません。
モデルとして名前が知れるようになってくるといろいろなことがありました。怖い先輩達に呼び出されたり、いたずら電話がかかってくることもよくありましたね。「調子にのってんじゃねえよ」から「ファンです。○○さんって知ってますよねえ」までいろいろ、大変でした(笑)。プチセブンにはティーン誌なのに20才まで専属で出させていただきました
その後短期間にいくつかのファッション誌に出て、プチセブンと同じなじみのある、小学館のCanCamの専属モデルになりました。CanCamでは約3年間お世話になり、幸せな結婚をしてママになった今もモデルを続けている中林美和さんや女優として大活躍中の長谷川京子さん、Oggiの表紙モデルの小泉里子さんたちと一緒に仕事をさせてもらいました。

3年間のCanCamモデル時代は決してハマってはいなかったと思います。CanCamの看板になるモデルにはキレイさが求められます。私は見ての通り個性派≠ネので(笑)、なかなか難しかったですね。
CanCamの専属を辞めた後、別のファッション誌の専属になるお話があったのですが、タイミングが合わず、話が流れました。
ずっと専属でやってきたので、本拠地となる雑誌がないならモデルを辞めようと決心しました。ここで踏ん張ればモデルとして続けることもできたかもしれません。しかし私は気持ちの整理をつけるのは早かったです。
その頃、私は通信でアクセサリーデザイナーの勉強をしていました。実は20才の頃に父の薦めで宝石鑑定の学校に通ったことがありました。
子供の頃から父は私の将来の職業は、芸術家か音楽家でなければならないという不思議な信念を持っていました。小中学生の頃はフルートを習わされました。知り合いの花屋さんへ、突然修行に出されたこともあります。「明日朝6時から○○に行くことになったから」みたいな感じで。だからこのときもジュエリーデザイナーになれということで学費を出してくれました。父は父なりに私の将来を考えてくれていたんだと思います。しかし鑑定士の勉強はあまりにも私にとって難しく、続きませんでしたが。
そしてモデルを辞めるとき、またしても父が登場します。私がアクセサリーデザインに興味があることを知ると、またしても父の知り合いのデザイナーさんのところに修行に出されました。時給500円からの勉強の日々でした。毎日ビーズに糸を通したり、黙々と手を動かしてました。それが面白くて仕方がなくすぐにハマってしまったのです。それで「もうモデルはやんなくてもいいや」という気持ちにスパッと切り替えられたのだと思います。

先生の元で働き出して、最初に作らせていただいたアクセサリーがなんとセレクトショップの「アクアガール」に置かれることになったのです。嬉しかったです。なんとかやっていけるんじゃないかという自信もつきました。先生の元では約1年間修行をさせていただきましたが、「アクアガール」の他に「FREEE'S SHOP」などいくつかのセレクトショップで、次第に扱っていただけるようになりました。
しかし私の中ではもっと技術を磨きたい、彫金などの加工技術を、という欲が生まれました。それで先生の元を離れました。そのとき一緒にブランドを立ち上げようと言ってくれる人がいました。私は経験を積めるまたとない機会を生かそうと思いました。そうして2年前に私の最初のブランド「Bumble」を立ち上げました。渋谷109の中にshopもオープン。このときは何もかも初めての経験だったので、全てがバタバタでお店を回すだけで精一杯でしたね。
そして昨年、現在のurbanholics に所属、アクセサリーのデザインと並行してインポートの買い付けなどもやらせてもらいました。
その後約1年間コンセプトを温めて、この夏に私がデザイナー&コンセプターとして参加した、2つ目のブランド「Clasky」が誕生しました。

今はこの「Clasky」を広めたいです。百貨店やセレクトショップに広く扱われ、「Clasky」のshopバッグを持った人をたくさん見かけるようにしたい。そしていずれ表参道にonlyshopを持つようになりたい。これは夢ではなく当面の目標です。それができたら海外のセレクトショップに進出したいですね。LAや香港の。
個人的な夢としては、もっとアクセサリーを学びたいですね。今はデザインコンセプトを考えて職人さんに組み合わせてもらうことが多いですが、もう一度、学校に行って彫金などの技術を学び直して、自分が職人さんの技術を身につけたいです。自分が考えたコンセプトを細かいところまで自分の手で形にしてみたいです。
世の中に対する夢としては、小物がおしゃれの中心になるファッションを広めたいですね。洋服は毎日違うおしゃれをして、アクセサリーや時計は間に合わせのように同じものというのが、今のおしゃれの主流ですが、私はつまらないと思う。全身何千円の安い洋服でも、持ってるバッグだけはすごくいいものだったり、バッグの中に入っていて普段見えない小物がやたら可愛かったり、キーホルダーの裏地がきれいな色だったりと、本当のおしゃれって、見えないところに凝ることだと思う。
だから私は小物を大事にして欲しいと思う。そのうちに、小物メインのファッションショーをやってみたい。私がモデルのキャスティングやシチュエーションを考えて。それが成功したら、私を支えてくれた人たちの老後を幸せにしてあげたいな。


遊び心のある大ぶりなネックレスとブレスレット。 |
<コンセプト>
CLASSとLUCKYを掛け合わせて「Clasky」。エレガント感を大切にし、遊び心のある大人のNewアクセサリースタイル「大人POP」の提案。携帯ストラップ/アクセサリーを中心にした小物雑貨ブランド。ターゲットは常にファッションに気を使い、特に小物をおしゃれのポイントにしている20〜30代の女性。

Claskyの中心アイテムの携帯ストラップは¥2800〜。 |
 |

●DATA●
渋谷区神宮前4-12-10
同潤館DOUJUN WINGD101
TEL03・5785・2484
FAX03・5785・2485
営業時間11:00〜21:00 不定休 |
|
|