●ユージの会社は、誰でも知っている大手コンピュータ会社、私のほうは、IT業界で中堅クラスのソフト会社。業界の人なら「ああ、あの」と言ってくれても、一般人は誰も知らない。友人たちは、ユージの就職を「超ラッキー」と言い、私には、「運悪いね」と慰めてくれた。でも、現実は現実。私は大きな会社からはことごとくNOと言われ、今の会社の社長が拾ってくれた。「君はきっと大きくバケると思う。オレにはわかる」と気に入ってくれて。
●でも、とにかく仕事はキツイ。深夜残業・休日出勤当たり前。社長に期待されてるからと最初から全力でがんばってきたせいもあって、どんどん仕事を任される。しかも若手の間では、「困ったときは私に頼め」という習慣ができて、みんなが頼ってくる。だから、ユージとのデートもドタキャンの連続。グアム行きを前日キャンセルしたこともあるし、彼の仕事をズラしてもらって、ようやく行けた旅行もあった。
でも、どんなときも、ユージは決していやな顔をしなかった。「サヨちゃんのほうが、大変なんだから、しかたがないよ」と、いつも優しく譲ってくれた。私が徹夜でぐちゃぐちゃに疲れて帰ってみると、先に私のマンションに来ていて、「すごい疲れていると思ったから、料理作って待ってたんだ」と言ってくれたこともある。
ユージが恋人って、なんて幸せなことなんだろう、と、私はいつも思っていた。
●でも、ついにユージがキレるときが来た。
●就職して3年をすぎた秋。そのころになると、ユージはエリートサラリーマンらしく貫禄もついて、ずいぶんモテるようになっていたらしい。そのユージが、私の誕生日祝いに有名なレストランで食事しようと誘ってくれた。誕生日当日はふたりとも仕事の予定が入っていたから、ユージも私も絶対に大丈夫な日をと、慎重に考えて決めた10月の第1土曜日。その週は、月曜日から毎晩、土曜日が大丈夫か、互いに電話で確かめ合っていた。
●「ホントに土曜日、ドタキャンしない?」
●「今度ばかりは、いくらなんでも大丈夫。みんなにしっかり頼んでおいたから」
●それなのに…。
●前日の金曜日、思いがけない事件が起きた。ハゲかけた頭を汗びっしょりにして社長が飛び込んできた。
●「川内、悪い! 許してくれ! 佐藤が倒れたんだ。代わりは君しかいない!」
●一瞬にぎやかだった職場が静寂に包まれ、私は、その言葉の意味を理解した。
●5年先輩の佐藤さんは、うちの会社でいちばん有能な男性社員。その彼が、うちの会社でいちばん大事な取引先を担当し、今、すごく大きなプロジェクトをかかえていた。プロジェクトの決定会議は来週の月曜日。その佐藤さんが過労で倒れた。彼にかわってリーダーになれるのは、私しかいない…、社長が言いたいのは、そういうことだった。
●佐藤さんの顔色が悪いのは、皆が心配していたことだ。でも彼は、「月曜日の会議が終わったら休むから」と言って徹夜を続けていた。それがたたった。
●私が「でも」と言おうとするのをさえぎって、社長は言った。
●「わかってる、今度の土曜日だけは休みたいと、川内は言ってたよな。それはわかってる。でも、知ってるだろ、これが社運をかけた仕事だってことは。申し訳ない、本当に申し訳ないが、うちの会社を救うと思って、社員全員のためだと思って、頼む! 佐藤の代わりをしてくれ!」
●そう言って、社長は、私の前で深々を頭を下げた。すると、周囲の社員数人もつられるように頭を下げていた。
●誰もが、佐藤さんの代わりができるのは私しかいないと思っている、そんな雰囲気がじかに伝わってきた。それは、「でも」と言いたい私の気持ちを押さえつけた。「こんなに期待されている」といううれしさがなかった、といったらウソになる。
●実際、取引先に、「担当者が過労で倒れましたので、数日待ってください」なんて絶対に言えない。期日を守れなければ、ライバル会社に持っていかれるだけ。中小企業なんてそんなもの。社長はもちろん、社員全員が思い知らされていることだ。
●「わかりました」と、私は言った。そして、ユージに電話をしに外へ出た。
●ユージの反応は、これまでと違っていた。
●私が理由を言って土曜日のキャンセルを頼むと、一瞬黙ったあとで、「あれだけ約束しただろ。これまで、一度だって無理を言ったことはなかったよな」と、悲鳴のような声で言った。
●「わかってる。そのつもりだった。でも、今度のことは特別なの。うちの会社にとって、本当に本当の緊急事態なの」
●「緊急事態か。緊急事態に会社に頼られて、サヨはすごいうれしいんじゃない?」
●「そんなこと…、ユージには、すごく悪いと思ってる」
●「もういいよ。これまでオレがどれだけサヨに譲ってきたか。君の会社に譲ってきたか。サヨに全然わかってもらえてないってことが、よくわかった。オレか仕事か、なんて言いたくないけれど、でも、サヨは、オレなんかより会社が大事なんだよ。でも、本当は、サヨにこんなこと言ってしまう自分が、もっといやだ。
●もう、オレ、こんな自分、いやなんだよ」
●ユージは、そう言い放って電話を切った。私は呆然とするしかなかった。
●金曜から月曜の朝まで、私は会社に泊まり込んで仕事に没頭した。ユージのことはキレイに忘れて、というか、一種ヤケになって仕事に集中していたような気がする。
●そして月曜日の取引先との会議で、ほぼ予定通りにプロジェクトを受注することができた。体はドロドロに疲れていたけれど、これまでにない達成感を感じたのも事実。私は残務処理をして、3日間休むことを同僚に告げて、家に帰った。
●11時すぎ、ユージに電話をしてみた。ユージは電話に出たが、私がごめんと言う前に、「話したくない」と言ってすぐに切ってしまった。メールも打ってみたが返信はなかった。
●やっぱり、ユージを怒らせてしまった。付き合って5年、初めてのことだった。「もう、私たち、おしまいかも」と思いながら、私は、3日ぶりにベッドに入った。すぐさま睡魔が襲ってきた。
●休みの3日間、私はほとんど寝ていた。自分でも、これほど疲れていたのかと思うほど体は弱り切っていて、時折目が覚めてユージのことを思い出しても、いつの間にか眠っていた。
●休み明けの日、ようやく頭と体が動くようになって出社したけれど、さて仕事をと思うと、今度はユージのことが思い出されて仕事が手につかない。いつもの私なら思い悩むより前に、電話かメールしようと考えるはずが、それさえ怖い。
●「私は、ユージが言うように、ユージより仕事のほうが大事なんだろうか? いつも仕事のことでユージに迷惑をかけてきたんだから、そうかもしれない。でも、ユージは大好き。でも、それはユージがいつも譲ってくれてたから? だとしたら、やっぱり仕事のほうが大切だと思っているの?」
●こんなふうに思いが堂々巡りした。ユージを好きな気持ち自体を、信じられなくなっている自分に愕然とした。いったい私って何?と自問自答しても、わけがわからなくなるばかりだった。
●ユージには何度か電話やメールをしてみたが、返事はなかった。それで、仕事に集中しようと思った。仕事に夢中になれば、その間だけでもユージのことを忘れていられる。仕事を増やして、他のことを考える時間をなくそう。そういうふうに自分をし向けると、できないことはではなかった。ただ、まるで仕事をする機械になったような気がした。
●そして夜、家に帰ると、猛烈な自己嫌悪が襲ってきた。それに耐えた。
●ユージからは連絡がないまま、1か月が過ぎた。このまま自然消滅? それならそれでしかたがないかも…。私は、単調な生活を続けるうちに、そう思うようになっていた。デートの約束を気にすることなく仕事ができることは、意外にも私の心を軽くした。夜、ひとりでテレビを見たり本を読んだりするのも、悪くない気がした。残業量は変わっていないのに、生活にゆとりができたような心地よささえ感じていた。
●ある日、昇進の辞令が出た。社長が復帰してきた佐藤さんと私を呼んで、佐藤さんを部長に、私を課長にすると言ってくれたのだ。
●「君たちを、オレは私生活を犠牲にさせて働かせてしまっている。本当に申し訳ないと思うが、今、この会社には君たちのがんばりがどうしても必要だ。だから仕事は減らせないが、昇進してもらうことにした」
●27歳で管理職…、うれしかった。一生懸命働いてきてよかったと思った。そして、ユージの言葉を思い出した。
●「サヨは、オレなんかより会社が大事なんだよ」
●そうだ、ユージの言った通りなんだ。私には、恋愛より仕事のほうが合ってる…。私は、心の底に残っていたユージのイメージをぬぐい去ることにした。私は、やり手のキャリアウーマンとして生きていくんだ!
●課長になってしばらくたった夕方、突然、社長が「ごちそうしたい」と誘ってきた。連れて行かれた先は、なんと、誕生日祝いにユージと行くはずだった広尾の高級レストラン。私は、忘れたはずのものを突きつけられた気分だった。
●社長は、昇進祝いにと言って高級ワインを注文してから、私に真顔で話し始めた。
●「よく働いてくれているのは心から感謝しているが、川内、最近元気がないな」
●「え、そうですか? でも仕事はちゃんとやっていますよ」
●「わかっている。仕事のことはな。でも、人間それだけじゃダメだ。仕事だけしていれば大丈夫なんていうことはない」
●「でも、社長だって、ほとんど仕事だけの生活じゃないですか?」
●「そう、思ってるか? でも、それは違うな。人間、仕事だけをやっていたらダメなんだ。特に人を使う仕事はな。例えば管理職がそうだ」
●「私の仕事の仕方が、管理職らしくないと言いたいんですか?」
●「そうじゃないんだよ。最近の川内は、以前の川内と違っているんだ。確かに仕事は早いしミスはない。でも、それ以外のプラスアルファーが失われてしまったような気がする」
●「そんなぁ、私、課長にもしていただいたし、以前にも増して、一心不乱に仕事しているんですよ」
●「一心不乱か、なるほどな。でも、それがいけないのかもしれないな」
●社長の言葉は、私が封印しているものを、えぐり出そうとするかのようだった。
●「社長、やめてください。社長は私の雇い主です。私は社長の会社で仕事をしているんです。もう、これ以上、何も言わないでください!」
●「ごめん、確かにそうだな。これ以上言うと、セクハラになりかねないな。でもなぁ、川内がそんなふうになった原因は、オレが働かせすぎたからだ。だから、あえて、これだけは言わせてもらう。オレは、近い将来の経営幹部として、川内にガチガチの職業婦人になってもらいたくはない。以前の川内のように、川内らしいオーラというか、個性というか。そういうものを取り戻してほしいんだ」
●社長は持って回った言い方をしていたけれど、何が言いたいかはわかった。毎日の私を見ていた人なら、たぶん誰でもわかる。確かに私は変わっていたのだ。
●簡単なこと、私は、おしゃれをしなくなっていた。
●サラリーマンが手持ちのスーツとシャツとネクタイを無頓着に着回すように、清潔感だけしか考えない面白みのないビジネススーツスタイル。
●ユージがいるときは小物やアクセサリーで変化をつけたり、流行のコーディネートを楽しむこともあったのが、仕事に専念しようと決めたときから、ファッションを考えるのが面倒になってしまった。だからアクセサリーも毎日同じ、シンプルなピアスとリング。働く女性の定番のダークなパンツスーツに黒のショルダーバッグ。これで充分よ、私は色気で売ってるんじゃないもの、仕事の能力で生きているんだもの…。だから、これでいいの!
●でも……。
●家に帰ってひとりになると、張りつめていた心がプチッと破れた。そして、ユージに連絡がとれなくなったときの情けなさ、自分がいやでいやでしかたがない、あの自己嫌悪がよみがえってきた。
●なによ! なによ! なによ! 私は一生懸命やってきたでしょ。
●なのに、どうしてこんなふうにならなくてはいけないの?
●涙がボロボロでてきて、テーブルの上にあった雑誌や新聞を投げつけて、私はひとりで、声を出して泣いてしまった。
●恋愛なんて面倒、仕事のほうがすっきりしているし、気持ちも楽。わざわざ時間と身を削って、仕事も恋愛もなんて欲張る必要なんかない。だって私は、仕事だったら人一倍の実績が作れるんだし、周囲だって人目おいてくれるんだし……。
●こんな気持ちで自分を奮い立たせてきたことは、自分がいちばんよく知っている。そして、それに無理があることも、社長に言われなくたって、実はわかっていたのだ。
●ただ、ユージに振られたことが痛くて痛くて、それを考えたくなかっただけ。
●ユージに会いたい、ユージに助けてもらいたい。
●私は、泣きながら、ユージ、ユージと叫んでいた……。
●今の私がやらなければならないことは、ユージに会うこと。たとえ、ユージがいやだといっても、とにかく一度会ってもらうこと。
●その決心がつくまでに、また1か月必要だった。大学時代から続いていた付き合いだったけれど、こんなふうに追いつめられて、それでもユージが好きか、と自問自答したことは一度もなかった。もしかしたらユージは、私よりずっと真剣に考えてきてくれたのかもしれないけれど、私のほうは、仕事に追われ、ユージに甘えて過ごしてきていたのだ。 ●私は、ユージにメールを打った。少しばかり他人行儀に、祈るように。 ●「ご無沙汰しています。実は、会ってお話ししたいことがあります。よろしければご都合のいい日を教えてください。SAYO」 ●返信はすぐに来た。 ●「了解です。本日でよければ夜あいています。ユージ」 ●よかった。ホッとした。今夜会って、全身全霊をかけて、ユージを取り戻そう! 私は全身にエネルギーと愛情が満ちてくるように思った……。 |