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●次の日、夜の9時すぎに、おみやげの果物を買って、彼のメモにあった住所に行った。しかし、アトリエ兼住まいらしき建物は見あたらない。あったのは木造2階建ての古ぼけたアパート。
●まさかと思いながら、アパートのポストを見ると、201号室が「武田」だった。私は階段をあがって、201号室のドアをたたいた。
●「やあ、きてくれたね。うれしいよ」
●「こちらがアトリエ兼住まい?」
●「それ、皮肉? いや、いいんだ。おれの言ったことだもんね。ばれるとわかってても、店長の高野を前にすると見栄をはりたかったんだよ」
●そういって武田くんは、私を、よくあるキッチン付きワンルームの部屋に招じ入れた。彼は、小さな冷蔵庫から缶ビール2つを出してきて、部屋の真ん中の小さなちゃぶ台に置いた。
●「狭いところですが、さあ、どうぞ」
●武田くんと私は、ちゃぶ台を挟んで腰を下ろした。
●部屋の中には、画材も何もない。小さなちゃぶ台のほかは、本棚ひとつの殺風景な部屋。そして、間近に見る武田くんは、意外にも10年前とは全然違う、悲しげな笑顔を浮かべていた。
●「あの店じゃ、高野に出会えたうれしさもあって、無理して高校のときのおれのイメージで見栄はってたけど、今のおれは、ほんとはサイアクなんだ。仕事もほとんどしてない。フリーター同然。あのとき、高野にふられて以来、おれの人生は下降線の一途でさ。キャリアウーマンになった高野とは正反対なんだよ」
●そう、力なく語る武田くん。彼によれば、大学をそこそこの成績で卒業し、そこそこのデザイン事務所に就職してグラフィックデザイナーになったはいいが、新しく入ってきた上司とそりがあわずに2年前に退社。それ以来、フリーでの仕事もほとんどなく、今は、アルバイトをしながら食いつないでいる状態。
●「私は、大好きな絵を捨てて、安定した仕事を手に入れただけ。武田くんは好きなことを続けているんだもの、しかたないよ。厳しい世界だもの」
●「それ、慰め? 高野が人に慰めを言えるようになったのか…。なんかホントに逆転だなあ。高校時代の高野は、すごく暗くて、男嫌いって言われて、キッと口をつぐんで我慢してるような子だったよな」
●「いやなこと、思い出させないでよ」
●「でも、なあ、今考えると、高校時代のおれは自信満々すぎて、おまえの気持ち、全然わかってなかったんだよな。あのとき、ふられたときも、このおれがどうしてだよって、腹が立ったもんだ。けど、今のおれなら、よくわかる。自分に自信がなくて、誰も自分のことなんか見てくれてない、バカにされてるって思い込んでる卑屈な心境。そういうときって、どんなことも悪いほうに思えるんだ」
●「そうよ、そうだったの、私。みじめだった。そんな私を、あなたは、笑いモノにしようとした…」
●「あのとき? それは違うよ。あれは本気だった。高野のほうが、コンプレックスのせいで、人の言葉を素直に受け取れなくなってたんだよ。じゃなくちゃ、好きだって告白した男に、痴漢だの、わいせつ罪で訴えるだの、言えるか?」
●「えっ、そんなこと、私、言ってない!」
●「言ったよ。ショックだったからよく覚えている。おれが抱きしめたとき、わめいてた。痴漢だって大声出すわよって脅された。それで、さすがのおれも、あきらめたんだから」
●10年後に初めて知る、あのときの真実。
●あれは私を笑いモノにしようとしたモテ男の策略ではなく、真の愛の告白だった?
●「だって、どうして、あんなにモテた武田くんが、ダサい、いじめられっ子で、美人でもない私を好きになる? そんなことあるわけないと思うでしょ」
●私が反駁すると、武田くんは上目使いの優しい目をして、話を続けた。
●「高校のときの高野って、ホント、自分のこと、全然わかってなかったんだな。美人じゃないかもしれないが、ブスじゃない。ほかの子と同じくらいにはかわいかった。それなのにね、高野は、男子に対して強烈なバリアをはってたんだよ。男子が話しかけたりチラッと見たりすると、すぐさま察知してすごい目でにらみ返してくるか、完全無視を決め込む。クラスの男子はみんな、おまえの強烈な拒絶パンチを一度は体験したんだ。それで、くやしいから、からかうようになったんだよ」
●強烈な拒絶パンチ? 私の記憶にはまったくない。
●「おれは美術部に入ってすぐ、高野の絵を見て、色使いがすごく気に入ったんだ。で、この絵を描く子は誰かと思って、それから、ずっと高野のことを気にしてた。でも、高野は、男という男すべてを視界から排除してるようだったから、とても、話しかける勇気が持てなかったんだ。卒業を前にして、ようやく勇気を出したのが、あのときだったんだよ」
●「そんなこと、今さら言われたって、信じられないよ…」
●私は、高校時代の自分をありありと思い出していた。入学したときの不安、いじめられて歯を食いしばって涙を我慢したとき、絵を描いて心を癒していたとき…、そのときどきの心のこわばり、痛み、周囲への恨みや敵対心、私が感じたすべての感情が一度によみがえってくると、自然と涙がこぼれてきた。
●「男ってさあ、どんなに押しの強い奴でも、女が、一瞬でも、ほんのかすかな兆候でも、自分を受け入れてくれるかも、と思えるシグナルを出してくれないと、やっぱり勇気が出てこないんだ。高野には、それが一切なかった。驚くほどカンペキだった。おまえも辛かったんだろうけど、おれも悲しかったよ」
●高校時代の私、確かに、男が怖かった。恋愛ドラマや恋愛小説は好きだったけれど、生身の男は怖かった。心を少しでも許したら、いじめられると信じていた。
●「でも、高野って、絵を見たり描いたりしてるときだけ、優しい顔してたんだよね。ああ、あんな顔でおれのこと見てくれないかなって、思ってたりしたんだけどな、結局、一度もそういうことはなかった」
●武田くんの言葉を通して思い出す思春期の私。それは、私自身うすうすわかっていながら、心の奥底に封印した私の姿だった。
●男に対して少しでもスキを見せたら、お母さんと同じ目にあう。だから絶対にスキは見せてはいけない。
●お母さんは、お父さんに捨てられた。お父さんは、私が中学のときに私と母親を捨てて、ほかの女のところへ行った。捨てられたお母さんは、何度も何度も私に言った。
●「美枝子、あんなに優しかったお父さんでも裏切るんだから、絶対に男を信じてはダメよ。美枝子は、大人になっても、絶対に男に頼ってはダメ。自分で働いて生きていけるようにならないとダメよ」
●武田くんは、私が何を思い出しているか、察したようだった。
●「知ってるよ、高野の家庭の事情。といっても、卒業してから知ったんだけどな。そうか、そうだったのかって思って、それで、高野に再挑戦したいって思ったこともあったんだ。でも、おまえ、大阪だったし」
●「私、会社に入って、仕事を介してなら、男の人も怖くないと思えるようになった。でも、そうじゃないと、やっぱり怖い。プライベートな関係は、やっぱり、今でも怖い」
●私は、泣きながら告白した。こんなことを言うのは、生まれて初めてのことだった。
●「今、目の前にいる、おれのこと。怖い?」
●「ほんとうのこと言うと、やっぱり、ちょっと怖い」
●武田くんは、力なく笑った。
●「今のおれ、高校時代の高野より、ちょっとばかしマシだと思わないか? こんな最低サイアクで、自信喪失状態でも、キャリアウーマンの高野に、素直に話してるよね。ほめてもらいたい気分だよ」
●「でも…、私にとっては、今でも、武田くんは、高校時代の武田くんのままだよ。昨日会ったときも、今日も、カッコいいって思った」
●「カッコいい…か。高校生みたいな言い方だけど、うれしいよ」
●不思議だった。長い間隠してきた気持ちなのに、なぜかすんなりと口に出せた。私は泣き続けていたけれど、言葉はなんの気負いもなく、しゃべろうという意志とも無関係に、自然に発することができていた。
●ふと目の前の武田くんを見ると、彼もチラリと涙を見せていた。
●「いまのおれは、正真正銘のみじめな文なしだ。店長の高野には似つかわしくない。でも、高野を抱きしめたい。10年ぶりに、抱きしめてもいいかい?」
●私は、コクリとうなずいた。
●「高野、10年前も今も、大好きだよ」
●武田くんは、私の腰に手をまわし、額に優しくキスをして、両腕で力強く抱きしめてくれた。
●心地よかった。
●全身の力を抜いて男の胸に抱かれることは、たとえようもなく幸せで、甘くて、あたたかい。
●「こうやって立場が逆転して、ようやくお互いに素直になれたのかもしれないね」
●武田くんの胸の中で、心がすぅっと落ち着いてきた私は、涙声でそう言った。
●「よく言うよ。でも、成長したなあ、高野。これからは、女としても成長してくれ。俺のほうは、仕事でもっと成長しなけりゃいけないけど。こっちは、高野に教わりたいな」
●初めての熱いキス。
●28歳にして初めてのディープキス。
●私は、戸惑いながらも、彼のリードのままに、体中を熱くしていった。
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