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●「由美、すまん!ちょっとだけ遅れるから」
●言葉を発しようと口を開けた瞬間、裕二からの電話は切れた。照明を落とした薄明かりのカフェの中には、カップルや女性同士の笑い声が響いている。約束の7時ちょうどの電話だった。“ちょっと”の時間は、つきあいが長くなるつれて長くなった。祐二がここに来るのは早くて30分後だろう。しかめ面をしながら、左薬指に光る指輪をグリグリと回した。折り畳んだばかりの携帯を再び開き、アドレスリストを見ていたら、タイミング良く着信が光った。
●「な・あ・に・?」
●ちょっぴり甘ったるい声でうれしそうに出てみた。
●「昨日、電話くれたでしょ?
留守電にメッセージくらい残してよ」
●半年前、クラブで声をかけてきた明は、茶髪のちゃら男。でも、私の都合の良い時に会って遊んでくれる。
●「明ってすご〜い!
グッドタイミング! 今かけようと思っていたのよ、私」
●ちゃら男を言葉遊びでからかうのは楽しい。心が軽くなる。
●「それって運命感じない?
今夜は何してるの? あいてたら会おうよ」
●と明が誘ってきたとき、店の入り口に祐二が見えた。彼はホッとした笑顔で私を見つけた。
●「ねえ、ごめん、ちょっと。後でかけ直すね」
●今度は私が、返事も聞かずに携帯を切った。慌ててバッグの中にねじ込む。
●「ごめん、ごめん、帰り際にトラブルが起きちゃってさ」
●額の汗を拭きながら祐二が正面に座った。去年就職した裕二。髪型もネクタイの結び目も、仕事帰りのちょっと疲れた雰囲気も、すっかり社会人だ。
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●裕二とは、2年前に、親友の恵美と恵美の彼氏と一緒に花火見物に行って知り合った。恵美の彼氏の同級生だから3歳年上。私のプリクラ写真を見て気に入って、恵美の彼氏に仲介を頼んだらしい。花見見物の喧噪のなかで、緊張気味に「初めまして」と言った祐二は、高校生かと思うほど初々しかった。
●背が高くて(178cmとあとで知った)、ごく普通の容貌。でも恋人と別れた直後だった私は、「イベントが多い夏は、彼がいるとやっぱり便利」と、ヒトナツの期間限定ノリで付き合い始めた。
●それが気がついたら、今年の私の誕生日も一緒に過ごしていたのだから、男女の仲ってわからない。その間、祐二は就職し、私にも言い寄ってきた男が数人いたのに、結局、私は今も祐二といる。情熱的でないのが幸いしたのかもしれない。本当にこれが幸いなのかどうか、それはわからなけれど。
●「しっかしさ、今って、不景気でどこも大変なんだよな、今日のトラブルだって…」
●ビールを喉に流し込み、フ〜ッと宙に息を吐く祐二。口をついて出てくる話は仕事のことばかり。子供のころ見ていた、食卓でくつろぐ父親とそっくりだ。
●「社会人になると毎日コキ使われて大変だよ、学生の由美がうらやましいよ」
●祐二が就職してから、私は聞き役専門。シルバーのリングをプレゼントしてくれた19歳の誕生日ぐらいまでは、お互いのことばかり話していたのに…。 |
「俺があげたシルバーリングを、いつもつけてくれてうれしいよ。でも、今日からはこっちにしてくれ」
●今年の成人式、私は祐二の両親に引き合わされ、シルバーのリングは、カルティエのペアリングに変わった。
●「コレって婚約リングってこと?」
●冗談っぽく質問すると、祐二はマジな顔をして、
●「由美とはずっと一緒に居たいんだ」
●と答えた。さらに、「サラリーマンになって余裕なくなったからさ、約束しておきたいんだ」とも言った。
●このとき、裕二のお父さんが大きな会社を経営していて、何年後かには祐二が跡を継ぐ予定であることを知った。祐二なら、お母さんもとっても喜んでくれるだろう。祐二が社長の息子だなんて期待もしてなかったのに、私、なんて幸運なんだろう。 |
●私は小さいころから、母親に、「結婚するならお金のある人にしなさい」と言われ続けてきた。私と弟を産んでからもずっと働いていた母親は、仕事と家事で疲れると、決まって「お父さんの給料が少ないから」と、私を相手に愚痴を言った。
●そのせいか、私は、子供のときから、お金持ちの友達のお母さんと自分の母親を見比べていた。確かに、お金持ちの専業主婦のお母さんというものは、服装も優雅でおっとりしている。私の母親のようにささくれだったところがない。女としては、私の母親より数段ランクが上。そんなことを思いながら私は育ったのだ。
●「大学を卒業しても働かないで、お金持ちと結婚するの」と言う私を、友達はいつも笑っていたが、ほうら、思ったことは実現するじゃない。しかもなんの努力もなしに。
●それもこれも、祐二のおかげ。祐二、ありがとう。
●最近の私は、こんな思いを意識的に心の中で反芻するようになっていた。祐二の仕事話を聞き流しながら…。意識的に、自分に言い聞かせるように…。 |
●「最近はゆっくりできなくてゴメンナ」
●ふと気づくと、新宿駅に向かう階段の踊り場で、祐二が軽いキスをしてくれた。もう別れる時間だ。10時。こんなに早く…。
●「仕事、大変みたいだけど、体、無理しないでね」
●と微笑みながら祐二を見上げる。もっと一緒に居てほしいと言えない自分は、少しいらだたしい。
●右手でJRの改札に入る裕二に手を振り、左薬指を見ると、またリングの跡が強く残っていた。指輪がカルチエに変わってから、無意識のリングをグリグリ回す癖がついたのだ。自分の気持ちを素直に話せないとき、最近の私は、いつもリングをグリグリ回している。 |
●祐二が見えなくなってから丸の内線の改札に向かい、携帯を取り出した。
●「ごっめ〜ん、遅くなっちゃった!」
●明はワンコールで出てくれた。
●「用事終わった? 今、オレ、家にいるんだけど、どうする? 来る?」
●携帯を肩で挟みながら、指輪をはずしヴィトンのコインケースにしまった。
●「どうしよっかな? ふふふ、嘘よ、すぐに行くわ、待ってて」
●「早く来いよ。じゃ、待ってる」
●ほうら、明と話すと一瞬で心が軽くなる。ウキウキ、ドキドキしてくる。もちろん、明とは、結婚するまでの期間限定のお遊び。でも、このストレス解消ラブがなくなったら、私、どうなっちゃうんだろう。私は、自宅とは反対方向の池袋行きの電車に飛び乗った。 |
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