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●私は仕事帰りに、孝のマンションに飛び込んだ。
●「ふう、疲れた〜」と言ってソファーに座り、孝が出してくれた缶ビールを飲んでいたら、目の前に立った孝が、いつもの調子で言った。
●「最近会わなかったけど、麻美、太った?」
●またか、とうんざりしたが、それなりにかわいらしい声で、
●「も〜っ、孝ってムード台無し! そんなこと言ったら、エッチしな〜い!」
●と答えて、彼の腰に手を回した。
●「でもさ、麻美、ちょっと気を許すとすぐに体重増えるたちだろ。だから、ボクがチェックしてあげないと」
●まじめな顔をして孝は言う。この人は、自分の言うことが、どれほど私をいためつけてきたか、少しも気づいていないのだ。ナレーターコンパニオンの私は、職業柄、容姿には普通の女性よりはずっと気を遣っている。でも、孝のこだわりは、そんなもんじゃない。 |
●1年前、同じ事務所の由佳里に、「ドクターばっかりの合コンで一人欠員出ちゃったんだけど」と誘われて行った先で、隣に座ったのが孝だった。
●歯医者というわりには地味で、27歳という年のわりには落ち着きのある孝に、私は好感を持った。だから、最後まで隣で飲んで、誘われるままに彼の部屋で抱かれた。
●朝、目覚めるとそこは、高層マンションの最上階、広いリビングには、高級インテリアショップに置いてあるソファー。
●酔ったうえの関係だったが、私の中には、将来への期待が生まれていた。 |
●デートを重ねるうちに、孝は私の体型と服装を厳しくチェックするようになった。
●「今日のワンピースって太ってみえるよ」
●「パンツがぴちぴちしすぎてない?」
●「もっと大人っぽいコーディネートのほうが似合うよ。この雑誌のモデルみたいに」
●「隣の席の彼女さ、スタイル良いよね〜」
●「昨日会った女医さん、モデルみたいにスタイルよくて美人でびっくりした」
●常に誰かと競わされるような言葉。そうでなくても仕事柄、厳しい女同士の戦いがあるというのに、デートのときもその戦いが続いている感じ。
●いくら流行のレストランに連れて行かれても、おいしいメニューを目の前にしても、私は心おきなく食事をすることできなくなっていった。 |
●ある日、事務所で誰かが、「食べ過ぎた時は、すぐに吐いちゃえばいいのよ〜」と言った。人差し指を喉まで入れて…とやってみると、意外と簡単にできた。今内臓に入った食べ物が、あっという間に逆流してすっかり排出された。
●彼好みの女になりたかったのだ。「ますますキレイになった」と言われたかったのだ。金持ち歯医者の妻になる…という下心がなかったといったらウソになるけど。 |
●吐くことを覚えると、面白いように身体はやせた。
●孝はうれしそうに、「麻美、ホント良い女になったよ」と言ってくれた。そんな言葉を聞くのが、何より心地よい。目的を達成した満足感、女として勝利した喜び。
●でも同時に、自分の中の何かが壊れた。最初は気づかないふりをしていたが、後で思い出すと、自分でもそれなりに自覚していたのがわかる。何だかわからないが、とにかく私は何かの一線を越えた。
●嘔吐の回数はどんどん増えていった。レストランのトイレでも吐くようになった。
●その次は、何かを食べたくてしかたがない状態になった。仕事をしている間中、食べ物の事ばかり考えていた。外を歩いていても電車に乗っても、食べ物の写真があれば食い入るように見てしまった。
●食べないと落ち着かないし眠れないから、食べる。満足感が得られるだけ食べて、すぐにトイレに直行。もちろん、指には吐きだこができた。それを隠すために指の動きは不自然になった。
●吐くことそのものは快感だ。胃の中が空っぽになったと思うと気持ちがいい。でも、吐いてトイレの水を流すときには、もう自己嫌悪に陥っていた。
●ついに、仕事をするだけの体力がなくなった。肌はどす黒く、肋骨は浮き上がって、これは決して「キレイ」と言える体ではない。それでも食べたい、吐きたい。だから部屋にこもって食べ続け、吐き続けた。それがどれくらい続いただろう。
●突然、喉に指を入れても吐く事ができなくなった。なぜ? 食べたいのに吐けない自分を責めた。涙があふれて止まらなくなり、トイレの中で朝まで泣いていた。 |
●それが1週間前。翌日、私は、とにかく食べたいものを食べようと、デパ地下へ行った。有名料亭の天ぷらと酢の物を買って帰った。おいしかった。
●「もう、いいや、歯医者は、もういいや」
●心がふっきれると同時に、食欲は平常に戻り、吐きたい衝動もなくなった。なぜこんなにもすんなり元に戻れるのかと思うほど、私はすんなりもとどおりになった。
●孝は、私の体を見ているようで見ていなかった。いくら細くても、こんなにつやのないガサガサの肌の女なんて魅力ないのに、孝は何も言わなかった。孝は私のことなんて見てなかった。そう思い知ったのがよかったのかもしれない。 |
| ●それから5日間、エステで最高級のフェイスケアとボディケアをしてもらい、睡眠もたっぷりとると肌は回復した。仕事に復帰。2日続けて働いて、ひさしぶりに孝のマンションに寄ったのだけど、当たり前のことだが、孝は以前のままだった。 |
●カーテンの隙間から薄明るくなった外の光が差し込んで来た。
●音を消したTV画面には、星占いのテロップが流れている。
●「蟹座、きょうは思いを伝えるのに一番良い日」
●決心はついた。シャワーを浴びてから、きちんと孝にさよならを言おう。 |
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