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●「ごめんなさい、やっぱり私……」
●「でも、その頬……」
●バッグから手鏡を出して顔を見た。さっきの殴られたところが、次第にアザになってきていた。正樹は心から心配してくれている。
●「ごめんなさい、ごめんなさい……」
●泣きながらも、私はひたすらあやまった。しばらく無言だった賢い正樹も察したようだ。
●「……そっか、わかった。もうおせっかいしないよ」
●「ううん、迷惑かけたのは私のほう…。それなのに、ごめんなさい」
●私は、席を立って、その場で深々と頭を下げた。
●「他人行儀なことするなよ。じゃ、行くから」
●正樹は沈鬱な表情でレシートをとって、レジに向かった。
●「あ、キミの荷物、あとで送ってあげるから、住所連絡してね」
●それが、正樹の最後の声だった。 |
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●私が同棲していた男は、横暴で気難しく、暮らしはじめて半年が過ぎるころから、私を殴るようになった。
●去年の11月、早い雪が降り出した日、男は勤め先の上司におもしろくないことを言われ、不機嫌そのものの顔をして帰ってきた。こういうときは、なんでも暴力の理由になる。案の定、私が作った食後のコーヒーがまずいと言って、暴力をふるいはじめた。
●私は、このとき初めて、本気で「殺される!」と思った。そして裸足で外に逃げ出した。
●「待て、逃げるな!」と、アパートの階段まで追いかけてきた男は、雪にすべって早々に追跡をあきらめた。私はほっとしたが、裸足で歩くのはつらい。たまたま1000円札がポケットに入っていたので、小走りにディスカウントストアに入ってサンダルと靴下を買い、それから、あてもなく歩いていった。
●顔見知りのノラネコがすみついている商店街に入った。深夜になるとネコ好きの人たちが、思い思いのエサを持ってネコに会いに来る手芸用品店の前。小柄な黒ネコと、このあたりのボスらしき大きなトラネコがいた。
●「今日は何も持って来なくて、ごめんね」
●ゴロゴロとノドを鳴らしながら、すり寄ってくるネコを撫でていると、
●「こんばんは」
●と、以前、ここで何度か会ったことのある若い男が近づいてきた。にこやかに笑いながらネコの傍に寄って、コンビニ袋からガサガサとネコ缶を取り出す。
●「こいつの段ボールハウス、僕が作ってやったんだよねー。でもさ、気に入らないみたいで、いっつも中で寝てくれないんだよ」
●なれなれしいしゃべり方が気にならないのは、初対面じゃないのと、彼の雰囲気に傲慢さがみじんも感じられなかったから。私の顔に大きなアザがあることにも、コートを着ていないことにもあえて無関心でいてくれたのだと思う。ネコを囲んでしゃがみこみ、小一時間ぐらい、ネコ話に夢中になった。それが正樹だった。 |
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●それから一週間後、夜の12時ごろ、エサを持ってネコに会いに行った。シャッターの閉まった手芸用品店の前に人が集まっていた。シャッターの前に立てかけられた段ボールの看板を見ている。
●「ここに住んでいたネコ(ミーチャン)は、心優しい飼い主が見つかり11月30日に貰われました。幸せに暮らす場所を見つける事ができました。沢山の人達に愛され可愛がってもらい、ありがとうございます。」
●看板の端にミーチャンの小さな写真が貼ってあった。あの小柄な黒ネコ。目としっぽがかわいくてお気に入りだったので、うれしいような悲しいような気分になった。
●「あなたのひいきのネコ、ミーチャンって名前だったんだね」
●ポンポンと肩を叩かれ、振り向くと正樹だった。
●「今日は、ちゃんとコートにブーツも履いてるね。安心したよ」
●一週間前の私を心配してくれていたのがわかってうれしかった。そして、互いの名前と携帯番号を教え合った。 |
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●正樹はフリーの一級建築士。近所の住居兼事務所で一人暮らし。
●お互いの都合が合うと、近所のファミレスで午後のお茶を楽しむようになった。ただコーヒーを飲みながら正樹と話をしているだけで、私の心はくつろいだ。一緒に暮らす男の前では緊張の連続だったから、正樹とのひとときが楽園のようにさえ思えた。
●尊敬される専門職でありながら、少しもえらそうにしない、しかも明るく清潔感のある正樹と、すぐに会社をやめて暴力と罵詈雑言が得意な男とでは、誰が見ても月とすっぽんだ。
●当然のごとく暴力男に暮らすことに嫌気がさし、年が開けた1月20日、「来てもいいよ」の一言に救いを求めて、正樹の家に転がりこんだ。もちろん暴力男には何も知らせずに。
●正樹の生活は想像以上に仕事中心だった。毎日朝早くから深夜まで机に向かっているかと思えば、一日何件もの打ち合わせをこなしに出かけていった。正樹が仕事に集中している間、私はひとり、暴力男との暮らしの垢を洗い流すことができた。それに、正樹は一緒にいても少しも疲れない。むしろ私の過去を気遣って上手に話題を選び、私の心が元気になるのを助けてくれているように思えた。洗濯もアイロンがけも自分でやる正樹だから、私の分担はといえば食事の用意と掃除ぐらい。私も働かなくちゃと思いはじめるくらい、私は身も心も癒され、前向きになっていった。
●そして、そんな私を、正樹はとても喜んでいるように見えた。
●未だ外出するときは、どこかであの男に合うんじゃないかと、下向きにビクビクしながら歩いていたが、元気になるにつれ、あの男との関係を精算しなければと思うようになった。
●2月のある日、思い切ってあの男の携帯に電話をした。男が電話口に出た瞬間に、
●「もう別れているけど、ちゃんとお別れの言葉を言わなくちゃと思って電話しました。アパートの鍵もお返しします」
●と一気にしゃべった。
●「なんだよ、おまえ…」と話し始めた男の口調は下卑ていて、正樹の話し方に慣れた私には、聞いているだけでも不愉快だった。男が何をしゃべったかはよく覚えていない。とにかく持っている鍵を返すために、アパートに行くことだけを約束した。
●そして翌日、アパートで待っていた男は、酒臭く赤ら顔で、風呂にも長い間入っていないような臭気を漂わしていた。
●「おまえ、俺がおまえなしに生きていけないって、よくわかってるくせに、どこへ行ってたんだよ」
●そう言って玄関の前に立った男は、そのまま私に体をあずけるようにのしかかってきた。
●「いや、やめて。ほら、鍵を返すわ。私はもう、あんたのオンナじゃないのよ」
●私は、男をふりはらってドアの外に出ようとした。と、一瞬のすきを突いて、男は私の足を振り払い、私を押し倒し、羽交い締めにした。こうなると、もはや私の力であらがうことはできない……、これまでにいやというほど思い知らされたことだった。
●男は、脚をばたばたさせる私を抱きかかえてベッドに連れて行き、殴り、叩き、そして犯した。
●私が完全に無気力になるまで痛めつける暴力男の手法は、しかし私には効果的だった。私は正気を取り戻したとき、正樹と一緒に暮らす前の自分に戻っていた。 |
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●臭く散らかった部屋の向こうで男が一升瓶の酒を飲んでいるのを、ぼうっと眺めていたら、子供のころの記憶が鮮明によみがえってきた。父は女癖が悪く、何かというと、母に暴力をふるった。そのたびに、母は泣きながら、私にこう言った。
「ごめんね、ミコ。またお父ちゃんとケンカして…。でもね、お母ちゃんが悪いの。いつも愚図だから。お父ちゃん我慢できなくなっちゃうの。だからミコは、お父ちゃんを怒らないで。お父ちゃんが機嫌よくなるように、ミコちゃんだけでも、賢くていい子になって」
●それは子供心には、わけのわからない言葉だった。ただ、お父ちゃんが機嫌よくなるために、いい子にならないといけないということだけが、心に焼き付いて私は育ったのだ。
●父が肝硬変で死んで、そのあとを追うように母親が死んで3年になる。都会でひとりぼっちで暮らしていた私を拾ってくれたのが、あそこにいる暴力男。正樹とは月とスッポンのダメ男。
●お父ちゃんもあの男みたいだったのだろうか? そんなお父ちゃんを、お母ちゃんは愛していたんだろうか?
わからない。ただ、私もお母ちゃんと同じような人生を歩みそうな予感がある。 |
●男は、酒臭い息を吐きながらぐうぐう眠っていた。私は、ちらかった服を拾い上げ、化粧を直して、正樹に電話を入れた。
●「ちょっと、ごめんなさい。例のファミレスまで来てくれる? 話したいことがあって」 |
●正樹が出て行ったファミレスに、私は少しの間ひとりで座っていた。正樹とのいろいろなことが思い出された。
●「どんな生き物にも幸せになる権利はあるんだよ、ミーチャンみたいにさ」
●と言ったのはいつのことだっただろう?
●でも、ホント? あんな暴力男を選んだ私も幸せになる権利があるの?
●ねえ、正樹、そうなの?
●正樹を振り払うように、天国の母親が見えてきた。怖い顔をしている。そうだ、私は、お母ちゃんよりもも幸せになってはいけないんだね。
●わかったよ、お母ちゃん。 |
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