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●「井上様のお肌は、ホント、きめが細かくて、うらやましいですね」
●うとうとしていた私は、エステシャンのハスキーボイスで我に返った。白衣の彼女は、私の顔に貼り付けたパックをはがし、こめかみから頭皮マッサージをはじめた。
●「あら、今日はちょっと頭が固いですね、何か悩み事でも?」
●「そうじゃないんだけど、昨日のことを思い出していて…」
●「なんかいいことがあったんでしょう。井上様って、ホント、うらやましい。どんなことがあったんですか?」
●私は、エスティシャンの真っ赤なお世辞に心を許すようなタマじゃない。それにしても、どうして昨日のことが、こんなふうに鮮明に思い出されるのか…。 |
●昨日の日曜日は4月のポカポカ陽気で、人みな誘い出されたかのように、どこもかしこも混雑していた。環八沿いのベーカリーカフェ。まぶしいほど明るい店内は、子供連れやカップルで満員御礼。これほど私に不似合いな場所はない。
●周囲の雰囲気に反発する気分で、私をこの店に誘い出した拓也を見ながら、私はたばこを肺いっぱいに吸い込んだ。と、拓也が言った。
●「アユ、そろそろ結婚しないか?」
●拓也は言ってすぐに私から目をそらし、窓ガラスのほうを見やった。彼の視線の先には、私たちと同年配の夫婦が、子供と手をつないで駐車場に歩いていく姿があった。ブランドもののポロシャツとジーンズのペアルックの夫婦。誰でも知っている子供服ブランドのロゴ入りシャツを着た子供。拓也は、あんな感じのファミリーを、私と作りたいと思っているのか。私はそんな女じゃない。
●「エリートサラリーマンが、私なんかにプロポーズしてもいいの?」と皮肉を言いたかったが我慢した。
●「もちろん、拓也のことは好きよ。でも、今の私に、将来を決めるような真剣な関係は考えられないの」
●静かにきっぱりと、でも窓ガラスの向こうを見ながら私は返答した。駐車場の家族はワゴン車に乗って去っていった。拓也は何も言わずに、下を向いてコーヒーを啜っていた。勘のいい彼のことだ。おそらく私の返事は予想していたのだろう。予想していたのに、あえて言ったのだ。
●私は残りのコーヒーを一気に飲んで席を立った。彼は、「送るよ」と言ってレジに向かい、自宅まで送ってくれた。 |
●拓也の前職は、六本木の有名クラブ「スターダスト」のやり手店長。二十歳前から水商売で鍛えられ、人望も厚く、いずれは独立して青年実業家になるだろうと思われていたのが、1年前、突然店をやめた。クラブの上客だった人材派遣会社の社長に、部長格でヘッドハントされたのだ。
●私は、当時も今も、「スターダスト」のホステス。彼とは、彼が引き抜かれる直前から付き合いはじめ、今まで続いていた。
●この1年で拓也は見事に変身した。水商売の雰囲気がきれいに抜けて、昼間の男になった。知的でさわやかなサラリーマン。「水商売よりサラリーマンのほうが合っていたなんて意外」と、私は何度か拓也に言ったことがある。 |
●拓也を引き抜いたのは、人材派遣会社のオーナー社長、太田。実は、私は太田とも関係がある。もとはと言えば、店長の拓也がいかに優秀か、ことあるごとに太田に話していたのが私だった。
●引き抜いてしばらくたって、太田は私に、「いい男を紹介してくれたよ」と礼を言った。その後も拓也の仕事ぶりは抜群らしく、最近の太田は、自分の後を継がせたいとまで言う。太田は私の腰に手をまわしながら、「あの男を紹介してくれたアユにもお礼をしなくちゃいけないな。何がいいかな」と、誘うように語りかける。
●先週の金曜日、つまり3日前、太田はいつものように私を指名し、女の子達をはべらせていい気分になった後、神妙な顔をして私を口説き始めた。
●「実は、いいマンションが見つかって、今日頭金を入れてきた。これからは週末だけ横浜の家に帰って、月金はそこを住まいにしようと思っている。100平米の3LDK。君と一緒に過ごせたらと思うんだが…」
●嬉しかった。何かあると期待していたが、これは予想以上にいい話だ。そろそろ六本木を卒業して銀座で勝負したいと思っていたところ。そうなるには当然、パトロンがいる。太田なら申し分ない。
●「う〜ん、ちょっと考えさせて欲しいな」
●ホステスの常として気をもたせる返事をしたが、私はすぐにその気になった。 |
| ●その2日後、私はこのうえもなく健全な休日のベーカリーショップで、拓也にプロポーズされたわけだ。ふたりの男が同時に、でも違った形で、私を求めてきた。ひとりは愛人として、もうひとりは妻として。私は、妻になることを拒絶し、愛人を選ぶ。何の迷いもない。 |
●なぜかといえば、私が、幼いころから美人の姉に嫉妬しながら育ってきたからだ。
●2つ年上の姉は、色が白く顔立ちが整い、成績もつねにクラスで1番という両親自慢の娘だった。それにひきかえ、私は小太りで小柄で野暮ったく、成績も中の上。
●「歩は一体、誰に似たのだろうね」
●そう言って母は私を遠ざけ、姉にだけ愛情を注いだ。そんな家庭に私の居場所があるはずもない。私は高校卒業を心待ちにし、卒業式の翌日、やっと自由になれた喜びとともに東京に出てきた。
●昼間はOL、夜はパーティーコンパニオンをして、お金を稼いだ。収入は、生活費をのぞいてすべて痩せるためのエステ代と化粧品代に当てた。
●数か月後、私の体重は目標に達し、鏡に映した自分のシルエットにも満足できるようになった。顔の作りはそれなりに整っていたから、化粧テクニックを学んだことでどんどん垢抜けていった。
●上京して1年、夜のバイトを六本木のキャバクラに変えた。より多くのお金が欲しかったのと、他の女と男の関心を競ってみたかったからだ。そんな私は同僚には嫌われたが、半年でナンバーワンになった。
●さらに1年後、六本木で一番と言われるクラブ「スターダスト」から引き抜かれて、昼間の仕事をやめた。「スターダスト」でもすぐにナンバーワンになって4年、今日までナンバーワンを続けてきた。
●それでも、六本木のお店程度では、まだまだ私の気持ちは満たされない。きっと姉がこの世界に入ったら、銀座の一流クラブで売れっ子になっていただろうと、想像してしまうからだ。
●だから私にはなんの迷いもない。太田の援助で、銀座に行かなくちゃ! |
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●「それでは井上様、来週の月曜日も15時から、お待ちしておりますね」
●慇懃に私を見送るエステシャンの複雑な視線を背後に感じながら、私は店を出た。7年来の付き合いの彼女は、私の仕事を知っている。彼女は私を蔑みつつ嫉妬しているのだ。私の指のティファニーのダイヤリングを見つめる視線のきついこと!
嫉妬のベテランの私にはよくわかる。
●店を出た私は、携帯を取り出して太田に連絡した。
●「先週のお返事、今日の夜、パークハイアットでもいいかしら? 他に相談したい事もあるんですけど」
●甘えた声で誘うと、太田は二つ返事で了解した。私は、できるだけ多くの援助を太田から引き出すにはどうしたらいいかを考え始めている。より効果的な言い方、感動的なエピソード……、あれこれ考えをめぐらすのは、とても楽しい。
●私はもっともっと、男たちからチヤホヤされないといけないと思っている。しかもより高級な男たちから、より高額のお金を引き出せるようにならないといけないと思っている。なぜなら、高級官僚と結婚した姉にはまだ勝てていないから。姉への嫉妬や敗北感から、私はまだ自由になれていないから。
●姉の顔はもう5年以上見ていない。それでも私は、姉に対して女としての勝負を続けていくつもり。私の頭から嫉妬の対象である姉のイメージが消滅するまで、続けていく。
●「ごめんね、ホントは拓也のことがいちばん好き。でもまだゴールインするわけにはいかないの」
●そうつぶやきながら、拓也のアドレスを呼び出し、着信拒否に設定した。 |
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