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vol.12 2004.07.15
幸せだったのは私だけ?――28歳・睦美の場合
Novelization/笹倉 紫  Illustration/福田さかえ
FAnetオンラインノベルは、読者から送られた体験談をもとに書き起こした小説です。
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「あなたの旦那が、うちの近くのマンションから出てくるところを見たの」
「きれいな人と一緒だったのよ。OLっていうより、キャリアウーマンって感じの30代ぐらいの女」
こんな不安に襲われたことは一度もない。あの優しく理解のある夫が浮気?まさか、そんなことがあるはずない…、でも…。
私は、ごくごく平凡な幸せいっぱいの妻だと思っていた。優しく理解のある夫、幼稚園に通う一人息子。3人とも元気で、郊外の庭付き一戸建てに住み、夫は一部上場の会社に勤め、互いの両親とも健在。お金持ちとは言えなくても、浪費さえしなければ、年にひとつの高級ブランドバッグと1回の家族旅行ぐらいの余裕はある。
就職して1年足らずで夫と出会い、熱烈にアタックされてつきあい始め、半年後にプロポーズ、結婚して専業主婦になった。今も昔も夫の愛を疑ったことはないし、もちろん私も夫を心から愛している。
それに、ごくごく一般的な日本男児だと思った夫が、「釣った魚にはえさをやらない」タイプでなかったことは、うれしい誤算だった。夫は疲れて帰ってきても、必ず風呂掃除はしてくれるし、朝のゴミ出しもいやがらない。休日のショッピングにもつきあってくれるし、子供ともよく遊ぶ。
息子を幼稚園に送り出して、ひとり掃除や洗濯をしているとき、私は、自分の幸せを実感した。お金がもう少したくさんあれば…と思わないことはないけれど、物欲には限度がない。今でも充分幸せだ。
そんな幸せいっぱいの私のもとに、ある日、涼子から電話が入った。
涼子は、OL時代の同僚。彫りの深い魅力的な美人で、社内でも有名人だった。私より半年前に結婚退社し、外資系金融会社の日本人執行役員の妻になっていた。当時、涼子の旦那の年収は3千万円とか5千万円とか、社内で噂になったのを覚えている。
OL時代、特に親しくもなかった私に、涼子は時折電話をしてくる。話は自慢と愚痴。おそらく身近にそんな話ができる友達がいないのだろう。
旦那は忙しくて週末ぐらいしか帰ってこない代わりに、姑は孫会いたさに毎日のように押しかけてくる…、バリ島に家族旅行に行こうと思っていたら、テロがあってキャンセルした…、勝手にしてよと言いたいところを、私は生来の気の弱さから、「いいわねえ、そんな愚痴が言えるのも、旦那に甲斐性があるからよ」などと言って、彼女の虚栄心を満たしていた。
だからこの日の電話も、いつもと同じだと思い、適当に近況報告をしていたら、突然、涼子の声が低くなった。
「ところで睦美の旦那さんは元気?」
「どうしたの? 涼子が私の旦那のこと聞くなんて、珍しいわね。旦那のこと、覚えていたんだ」
と、明るく返答してみると、涼子は少し無言になった後、溜息まじりの声で言った。
「そりゃあ、覚えているわよ、顔くらい。そんなことより…」
「そんなことより、どうしたの?」
「実はね、うちの近所のマンションから出てくるのを見たのよ」
「え?」
涼子の言っている意味がわからなくなって、問いただした。
「だからね、昨日、あなたの旦那が、うちの近くのマンションから出てくるところを見たって言ってるのよ」
「あ、そうなんだ。たぶん、仕事相手にでも会いに行ったんじゃないの?」
「そのマンション、事務所があるようなマンションじゃないの。うちの近くでは有名な高級マンション」
「へえ、でも取引先の社長とかだったら、お宅におじゃますることだってあるでしょ」
「夜の9時に?」
私は絶句した。
「きれいな人と一緒だったのよ。OLっていうより、キャリアウーマンって感じの30代ぐらいの女。ふたりでそのマンションから出てきて、駅まで一緒に歩いていったの。そりゃもう、私、びっくりしちゃって、つい、あとをつけちゃった…」
私は、涼子が好奇心の虜になっているのを察知して、自分の焦りを感じさせないようにきっぱりと言った。
「キャリアウーマンなら、やっぱり仕事関係の人よ、きっと」
「あら、そう、さすが睦美は余裕が違うわね。だったらいいのよ。余計なおせっかいだったみたいね」
電話の向こうで、涼子は腹を立てていた。
「とにかく、住所を教えてあげるから、事実を調べてみたら? 私の心配がホントかどうか、すぐにわかるから。いい? メモしてよ。渋谷区…」
涼子は早口にそのマンションの住所を言って、一方的に電話を切った。
涼子には平然と応対してみたものの、受話器を置いた私の心臓は、ドキドキと振動し続けた。結婚してから、いや夫と知り合って以来、こんな不安に襲われたことは一度もない。夫が浮気? まさか、そんなことがあるはずない。
その晩、帰宅した夫にはいつもどおり接したが、夫が眠りについてから、私は、初めて夫のスーツのポケットというポケット、かばん、携帯、財布、すべてを細かく念入りにチェックした。浮気を想像させるものは何もなかった。
ただ、ひとつだけ気になることがある。それは数か月前から、金曜日になると遅くなることがあって、そういう日は明け方近くまで帰宅しないことだ。週末だから残った仕事を片づけているのだろうと思っていた。それに、涼子が夫を見たという日は金曜日ではない。夜といっても9時だ。明け方ではない。
それでも、数か月前からその習慣が始まったということには、ほんの少しばかり疑いが残る。異動や担当替えがあったとは聞いていない。夫の仕事はその前も今も変わっていないはずだ。
ほんの少しの疑惑。たとえてみれば、真白いナプキンにほんの1ミリのシミがついている程度の疑惑だったが、それがどんどん気になっていった。たとえ、1ミリの疑惑でも、あんな完璧な夫に疑いを持つのは申し訳ない。一点のシミもなく、私は夫を信じていたい。
翌日の金曜日の朝、夫は、「残業で遅くなるから、先に寝てていいよ」と言って出かけていった。私は、涼子に教わったマンションに出かけてみることにした。夫に抱いたほんの少しの疑惑を晴らすために、夕方、子供を実家に預け、地下鉄千代田線の終点、代々木上原に向かった。
涼子が夫を見たというマンションは、代々木上原の駅からほど近い閑静な住宅街にあった。低層の重厚な作りのマンションで、なるほどお金持ちの住むところという雰囲気だ。こんなところに、まさか夫が来るわけない、そうよ、まかり間違って来るとしたら、取引先の社長さんが住んでいるとか、そういう事情ぐらいしか考えられない。涼子の見間違いに決まってる。涼子、もう何年もうちの旦那を見ていないんだから…。
私は、少しの間、マンションの玄関先の並木のそばに立っていた。マンションからの人の出入りはまったくなく、道を行く人も2、3人しかいなかった。
ペットの犬2匹を連れた老婦人が、私に怪訝な視線を向けて通り過ぎていったとき、私は、自分のやっていることがえらく愚かしいことに感じて、引き上げることにした。
その前に、ちょっとマンションの中をのぞいてみようと思ったのは、単なる好奇心だった。大きなガラスドアを開けて入ると、オートロックの重厚なドア。馬鹿馬鹿しいことに時間を費やしたものだと後悔して外に出ようとしたとき、後ろから声が聞こえてきた。
あわてて柱の陰に隠れた。こういう高級マンションには、どんな住人が住んでいるのだろうと覗いてみると、エレベーターホールから男女が出てきた。女性は、栗色の髪の毛をキレイにカールさせ、真っ赤なスーツに身を包んだキャリアウーマンタイプ。そしてその彼女が腕に手を回している男性が、私の夫……。
動きがスローモーションに変わった。なぜか、私は吐き気を催した。
私は、夫と女性がマンションを出て行ってから、ずっとマンション前の舗道に立っていた。といっても何かを見ていたのでもしていたのでもなく、気を失っていたようなものだ。我に返ったのは、真っ赤なスーツの女性が向こうから戻ってくるのが見えたときだった。
「佐々木義夫をご存じですよね」
私は、彼女がマンションのオートロックを解除しようとするときに、後ろから声をかけた。彼女は不思議そうな顔をして振り返ってて、
「失礼ですけど、あなたは?」と聞いてきた。
「私は、佐々木の妻です」
小刻みに震える体を必死にこらえて答えた。彼女はまじまじと私を見つめたが、動揺は見せなかった、と思う。
「そうですか、立ち話もなんですから、喫茶店に行きませんか?」
彼女は、ごく自然に、優しい口調で私を誘った。
駅前の喫茶店に向かう道すがら、私は何らかの言葉で彼女を非難したいと思ったが、冷静そのものの彼女に圧倒され、何ひとつ口に出すことができなかった。
「奥様、ごめんなさいね」
喫茶店で着席すると同時に、彼女は深々と頭を下げて謝った。
「どういうつもりで付き合っているのですか?」
まるで昼メロの台詞みたいだと思ったが、それしか言葉が浮かんでこなかった。彼女は顔をあげて言った。
「奥様、はっきり申し上げておきます。佐々木さんとはお互いの都合の良い部分だけで付き合ってきました。私、仕事を持っていますし、互いの欲望だけで向かい合う相手ということです。それ以上でも以下でもありません」
彼女は背筋を伸し、きっぱりと話す。どこで知り合ったのか、最大の疑問を問いただしてみた。
「出会い系サイトです」
恥じることなく、堂々と打ち明ける彼女が、私は恐ろしくなってきた。私の周りにはいないタイプの女性だ。
子供ができる前、私は夫のセックスの欲求が強過ぎるのではないかと思ったことがある。夫はほとんど毎夜、しかも何度も求めてきた。でも、それは、私への愛情の深さだと納得することにしてきた。子供ができてからは、私が少しでもいやな顔をすると、それ以上強要することもなく、次第に回数は減っていった。思いやり深い夫は、我慢していたのだろうか。
「こんなふうに、奥様がいらっしゃるのはルール違反ですし、私、二度と佐々木さんとは会いません。ですから、ご安心ください」
彼女は、冷静にきっぱりと宣言して席を立った。そんな彼女を前に、私は言葉をなくした。彼女がレジで早々に精算するのを後ろで待ち、彼女が別れの挨拶をするのに合わせて、無言で頭を下げた。
家に帰ると、遅くなると言っていた夫が、すでに帰宅していた。「残業、疲れていたからやめちゃったよ」と言い、息子を実家から引き取ってきていた。
夫は、これまでの金曜日、彼女との逢瀬を終えてから会社にもどって、残業をしていたのだろうか、おそらく今日のことは、彼女から報告を受けているだろう。それであせって早く帰宅したのかもしれない。そんなことに想像を巡らせたが、私に、夫に問いただす勇気はなかった。
互いにいつもどおりに食事をし、子供を風呂に入れ、寝かしつけた。何事もなかったかのように、いつもどおりの優しい夫だった。
その夜、夫は久しぶりに私を求めてきた。夫の心の内は全く想像できなかったが、拒否することなど考えられない。いつものように受け身で、たぶん夫には物足りない、慎み深い私を、夫は抱いた。
それでも抱かれながら、私はさまざまな想像を巡らせた。赤いスーツの彼女とは、どんなセックスをしたのだろう。彼女は奔放に夫を求めたに違いない。そして、夫も激しく、強く彼女を抱いた…。妻の私には想像もつかない姿で…。
夫が気づいたかどうかはわからないが、私は目をつむりながら泣いていた。子供のように無邪気に信じていた私の幸せは、崩れ去った。たとえ夫の浮気がこれで終わったとしても、私は、もうこれまでのように純な気持ちで夫を見ることはできない。そんな私の思いを知ってか知らずか、セックスを終えた夫は私の額に優しく口づけして眠りについた。眠っている夫の背中が、私にはとてもそらぞらしいものに見えてきた。
私は、夫も私と同じように幸せだと思いこんでいた。本当は違っていたのかもしれない…、そのことに思い至って、赤いスーツの彼女の言葉を思い出した。
「おひとりで、寂しくて、それで私の夫と付き合ったのですか?」という私の無神経で残酷な質問に、彼女はこう答えたのだ。
「ご想像どおり、私は独身です。でも、私は金銭的だけでなく、精神的にも自立しているつもりでいます。ただね、ときどき、空虚を埋めたい日があるんです。で、ソレをする時って、生きてる実感があるの…」
そのとき、彼女は、かわいらしくニコッと微笑んだ。その笑顔は出会ったころの夫を思い出させた。
私は、結婚してから、夫の何を見てきたのだろうか、いったい夫の何を理解してきたのだろうか…、私が見ていたのは、自分で勝手に作り上げた子供っぽい家庭のイメージ、優しい夫のイメージ。それだけ。うすっぺら。
たぶん、私自身が変わらなくちゃいけないのだろう。そうじゃないと、夫はまた、赤いスーツの女性を見つけてしまうのだろう。でも、どう変わったらいいのか、私には、なにもわからない。ただ、眠りに入るあやふやな意識の中で、なぜか、明日、就職情報誌を買ってみようと思った。
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