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●えっ、どうして? 7万円しか残っていない。これまで残高が10万円を切ったことなんてなかったのに…。
●私は、銀行のATMコーナーで、残高の数字に愕然とした。ついこの前、昇進してお給料が増えたのに、預金残高は就職以来最低の水準! 昇進後のいい気分が台無しだ。原因はすぐに思いついた。先週のパーティのせいだ。宣伝を担当した新製品のおひろめパーティ。昇進後すぐだったこともあって、高級ブランドのドレスとバッグを買ってしまった。「それって○○の新作ですよね、素敵ですねえ」と、パーティでも注目され、それなりに効果はあったものの、おかげで30万円が飛んでいった。その結果が、残高7万円と20円。
●「昇進するとお金がかかるものなの」と、自らを慰めて職場に戻ったものの、運悪くその日の午後は、苦情や変更の電話ばかり。その対応に追われて、克也との7時の約束にも遅れてしまった。 |
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●7時30分すぎ、ようやく青山のイタリア料理店に着いた。
●「ごめんなさいね。待たせちゃって。予定にない仕事がどんどん入っちゃって…」
●席につきながら、克也に謝ると、
●「もう7時半すぎだよ。俺の30分はいったいどうしてくれるんだよ」
●と、克也は、いつになく腹を立てていた。
●「だから、ごめんなさいって、言ってるでしょ。ほんと今日は、間が悪いことばっかりだったのよ」
●「そうかよ。この前は20分遅れたよな。で、その前は15分だった。俺は、いつのまにか待つ男にならされたってことか」
●「バカ言わないでよ」
●「俺は、バカか? そりゃあ美絵は主任になったけど、おれはヒラのヒラだもんな」
●あぁあ、克也も最悪だ。今日は、ホントに何から何までサイアク!と思うと、私は謝る気を失った。
●「私ね、ひがみっぽい人って大嫌いなの。とくに男のひがみなんて、聞いてられない!」
●そう意地悪く言うと、克也の顔はみるみる赤くなっていった。彼は、立ち上がった。
●「俺、帰る」
●私は黙って下を向いていた。心の内は煮えたぎっていたが、体は脱力していた。つきあって1年、いつも温厚で優しく頼りがいのある克也だったのに、どうしたんだろう。それでも、店を出て行く克也の後ろ姿を見て、私は絶対に許せないと思った。
●「お連れ様はお帰りなったようですが、お食事はどうなさいますか?」
●ウェイターが、おそるおそる声をかけてきた。
●「私もいりません。帰ります」
●「でも、本日はコースをご予約いただいてたんです。キャンセルなさるんでしたら…」
●「キャンセル料が必要ってこと?」
●「はい、通常は当日キャンセルの場合70%ほどいただいています」
●「コースはおいくらでしたっけ?」
●「お一人様、15000円ですが」
●思い出した。今日は、克也が私の昇進を祝ってくれる日だったのだ。だからこの店も彼が予約し、彼のおごりということになっていた。克也は、奮発して高級な店を予約してくれたのだ。なのに、勝手に帰って、私にキャンセル料を払わせるなんて! |
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●店はキャンセル料は1人分でいいと言ってくれたが、それでも1万円以上の出費だった。アパートに帰ってすぐにベッドに入った。でも、眠れなかった。体は疲れているのに、心のむしゃくしゃがどうにもおさまらない。12時少し前に、高校時代の友人、恵子に電話をした。恵子は1年前に寿退社して家庭に入っている。
●「ごめん、遅くに。眠ってた?」
●「大丈夫よ。だんなはもう寝ちゃってるし。どうしたの? 声がすごく暗いよ」
●今日一日のことを恵子に話した。恵子は黙って聞いてくれた。
●「最近、美絵、舞い上がってたもんね。今日のことは、その反動じゃないの?」
●「そんなに舞い上がってた? 私」
●「そりゃそうよ。この前、電話くれたときなんか、もう、すごいと思ったもん」
●「この前って」
●「ほら、昇進したって言ってた」
●「ああ、あの時…」
●「私ね、あのとき、美絵って、まるで男みたいになったって思ったの。だって、私のいた会社の男たちとそっくりの反応だったんだもの」
●「いやだぁ、そっくりって、私、どんなこと、恵子に言った?」
●恵子が話してくれた私の様子は、確かに男のサラリーマンそっくりだった。ああだ、こうだと理屈はこねていても、結局のところ上司に気に入られて昇進したい下心が見え見えのサラリーマン。私が一言も発しないでいると、恵子は優しく慰めてくれた。
●「ごめん、私、調子に乗って言い過ぎた。専業主婦になった私としては、昇進した美絵がうらやましいって面もあるからさ。許してね」
●「ううん、そんなことない。確かに冷水を浴びせられた思いだけど、でも、私、自分に気づいていなかったのは確かだもん」
●電話を置くと、睡魔が襲ってきた。自己嫌悪に陥る代わりに、夢を見た。克也から二度と連絡が入ってこないという夢だった。毎日仕事に追われながら、克也からの連絡を待っている私……。 |
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●夢は正夢だった。週に2、3度は電話かメールをくれていた克也から、2週間たっても連絡はなかった。自分から連絡しようと思うときもあったが、どうやって話を切り出したらいいかわからない。私は、男との関係がぎくしゃくしたとき、自分から折れたことが一度もない。自分のほうが明らかに悪いときでも、いつも男から謝ってくるのを待っていた。忙しい仕事にかこつけて、私は、克也との関係について態度保留を決め込んでいた。
●ついに1か月が過ぎ、夏の一斉休暇が迫ったころ、職場は女の子を中心に、夏休みの予定の話で持ちきりだった。
●「吉川さんは、今年はどこにもいらっしゃらないんですか? いつも、ヨーロッパとかタヒチとか、華やかだったのに…」
●部下の女の子が話しかけてきた。
●「B社との例の件が、ちょっと遅れててね。心配だから、あきらめちゃったのよ」
●くやしまぎれに口をついて出たウソだった。夏休みは克也と海外で過ごすはずだった。あの日の前まで、どこに行こうか、予約はとれるだろうかと楽しく話し合っていたのだ。
●「主任になっちゃうと大変なんですね、責任があるから。お疲れさまです」
●と、部下の女の子は言ったが、まさにそう言って欲しいからついたウソだった。私ってどうかしている…、さすがに自己嫌悪に陥った。
●そんなとき、電話が鳴った。
●「もしもし、C社の原田ですが、いつもお世話になっております。吉川さんは、いらっしゃいますでしょうか?」
●克也だった。克也は、取引先に勤めていた。仕事上の関係はほとんどなかったが。
●1か月ぶりの彼の声に、私は平静を装って答えた。
●「はい、吉川です。こちらこそ、いつもお世話になっております」
●「実は、弊社の担当の酒井が休暇中でして、直接ご連絡をさせていただいたのですが…」
●完全な仕事モード。少しも隙を見せない他人行儀な話しぶり。私は圧倒され、彼の仕事モードにあわせることしかできなかった。用件がきわめて事務的に告げられ、電話は切れた。私は敗北感でいっぱいになっていた。たぶん、克也にとって、私はもう過去の女なんだろう。 |
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●1か月を過ぎても、預金残高は10万円を超えていなかった。給与振り込みの直後は40万円台になったけれど、生活レベルは変えなくても、仕事で自腹を切ることが増えたせいで、あっという間に残り9万円。
●なんの予定もない夏休みを迎えて、久しぶりに田舎の実家に帰る気になったとき、往復交通費とお土産代で、預金がほとんど底をつくことが判明した。私は、大人になって初めて、親に甘えたいと思うようになっていた。 |
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●飛行機とバスを乗り継いで帰った実家は、県下でもドがつくほどの田舎だ。
●何にもない、のんびりしすぎている、こんなところにいたら腐ってしまう、と、以前の私は思っていた。
●「ねえ、お母さん、仕事でお金がかかるのよ。少しお小遣いくれない?」
●「お前、えらくなったんだろ? だから、お父さんと、これからは恵美からお小遣いがもらえるね、と言ってたんだよ。逆なのかい?」
●「私だって、そろそろお母さんにお小遣いあげたいって思ってたの。でも、主任になったら、いろいろ物入りなの」
●「都会の仕事っていうのは難しいもんだねえ。いやになったら、いつでも戻ってくればいい。ここがおまえの家なんだから」
●母親は、どこまでも優しい。人が良すぎると思っていた母親のぬくもりが、失恋の痛みを癒してくれた。
●「そういえば、この前、一恵おばちゃんが、縁談の話を持ってきたんだよ。でも、おまえ、見合いはいやがっていたから断ったんだけどね。会ってみるかい?」
●「どんな人なの?」
●「隣村の谷口さんの縁続きでね。県に勤めているだけど、ずっと東京事務所にいるんだって。だから、共働きもできるし、いいんじゃないかって、おばちゃん、言ってた」
●「写真、あるの?」
●「おばちゃんに言えば、すぐに持ってきてくれるよ。じゃ、頼んでみるね」
●私は、自分の心境の変化に驚いていた。私って、いったいどっちを向いているんだろう。見合いしようなんて、失恋のやけっぱち?
●でも恋愛も仕事も、なんか違ってきてる。どうしてだかわからないけれど、肩すかしを食らわされたような気分。こんなときは、自分らしくないことしたほうがいいかもしれない。
●突然、母親が私の両肩を叩いた。
●「いやだ、お母さん、どうしたのよ」
●「すごいよ、この肩、鋼鉄みたいだよ。これじゃ、ダメだよ、美絵。こんなんじゃ、いい人も出てこないし、仕事だってダメになる。ゆっくり休んで、肩こり治さなくちゃいけないよ」
●私は、母親の言葉で、肩肘張ってきた自分を思い知った |
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※来週はお休みさせていただきます。次回、VOL.16は、8月19日に掲載します。 |
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