第3章 age16 空とシュウ(1) ― 2度目の中学3年生、16歳になったのあ… ―
ちぎったコットンみたいに薄かった春の雲は、しばらくするとグレーに色を変え、何億粒もの雨を地上に落とし、最近は、真っ白いマシュマロみたいな入道雲へと姿を変えつつある。今日は7月12日で、私は16歳になった。
女教師の胡散臭い英語の発音を聞き流しながら、私は一応は開いた教科書の上に肘をつきながら、窓の外を、遠くの空を、見上げていた。6限目の授業なのに、まだ空は青い。日が、伸びている。私は左手を制服のポケットに入れて使い捨てカメラをそっと出し、机の脇で、それを空が映るような角度に傾けると、カチッと シャッターボタンを押した。左手でそのまま、カメラをポケットの中に戻す。
もう、あの雲の中では泳げなそうだなぁ。一見、モコモコして柔らかそうに見えるけど、実は硬そう。入ろうとしても体がバウンドしちゃうな、きっと。真っ白な雲に弾かれて、真っ青な空の上で困った顔してる自分の姿を思い浮かべたら、私はちょっと笑ってしまった。
「中山さん、何がそんなにおかしいのかしら?」
女教師がそう言うと、生徒達が振り返って、私に注目した。ちょっと吹き出しただけじゃん、面倒臭いなぁ。この女教師はいつも、いちいち私に絡んでくる。それに生徒もさ、教師の発言にいちいち反応しないでよ。
「いや、別に。何でもありません」
私がそう答えると、"女教師"のコスプレみたいなわざとらしい眼鏡を少しずらしながら、女教師は言った。
「いいのよ、何かおもしろいことを思い出したから笑ったんでしょう? そのエピソードを、是非教えて貰いたいな。中山さんがつい笑っちゃうようなことなら、きっと私達も笑えると思うのよ。シェアしてくれないかしら?」
「……」
「それとも、ここでは言えないような内容なのかしら?」
女教師は口角を少し吊り上げて、微笑んだ。なんて、下品な女なんだろう。でも、野村とは違う、女独特の意地悪さを含んだ笑みに、私は少しゾッとした。でも、売られた喧嘩は、買ってやろう。
「いや、先生のそのメガネ、ちゃんと度は入ってるのかなぁって。"女教師"ってタイトルのAVに出てきそうな、"まんま"のメガネだから、わざとかけてる伊達なのかなって思ったら、なんかおかしくって」
教室がドッと笑い、女教師は顔を赤くしながら大声を出した。
「大人をからかうんじゃありません!」
「言えって言ったのは、先生です」
私がシレッと答えると、女教師は耳まで赤くなった。
「廊下に立ってなさい!」
いいよ、別に。廊下にいれば、心置きなく、耳障りなあんたの声の遠くで、ずっと空を見ていられる。私は椅子をキーッと後ろに引いてから立ち上がり、言われた遠りに廊下へと向かった。
「上履きのかかとを踏み潰して、パタパタ歩くのをやめなさい! そんな女性は、誰からも愛されませんよ!」
女教師の捨て台詞を遮るように、私は教室のドアをバンッと勢い良く閉めた。
"私みたいな人間は、誰からも愛されない"
不覚にも、少しだけ悲しくなってしまった。そんな筈はないと、思えないのは、何故だろう。誰もいない廊下で私は、ヒンヤリとした床にお尻をつけて、膝を抱えて座って、足を動かしてつぶれた上履きのかかとをパカパカさせた。空を見上げる気分には、なれなかった。私は自分の、肌色の膝を見つめていた。ムカつく女の英語が、廊下で響いて尚更大きく、私の耳に入ってきた。
「あたし思うんだけど、富士野ってぜってー処女だって!」
モップの棒の先に片腕を乗せて頬を付けながら、舞が私にボソッと言った。私はホウキで廊下を掃く手を止めて、舞の方を見た。女教師の名は、富士野という。
「いや、それはないでしょ! だってあいつ、25、6でしょ?」
「ありえるでしょうよ、富士野なら。だって、富士野ののあを見る目、普通じゃないもん。ゾッとする目してるよ、いつも。のあが処女じゃないの知ってるから、許せないんじゃん?」
「え…、いくらなんでもそれはないでしょ。ただ、私のことがムカつくんじゃない? 富士野だけじゃないし、私のこと目の敵にする教師」
「そうだけど、富士野のあれは、嫉妬だよ。のあは自分じゃ気付いてないだけで、目を引く美人で、スタイルも良くて、その場にいるだけで目立つんだよ。だからあれは、完全にやっかみだね。あ〜、醜いね〜、女って!」
私はホウキで埃を集める振りをしながら、舞に背を向けた。
「…だから私、女って嫌い」
そう言った瞬間、私は背中で舞の、悲しそうな目を見た気がした。でも、いいんだよ舞も、明日から他人に戻っても。いくら舞が私に優しくしてくれても、私きっと、舞のことも信じられないと思うから。舞が私の味方をしてくれる度に、私、舞のことを信じてしまわないように心の中で必死になって、バリア張ってるんだから。いいよ、舞。他に友達、見つけなよ。
「ねぇ、のあ! 放課後ヒマ? この前話したショップ、一緒に行かない?」
振り返ると、やはりそこには、悲しい目を引きずったまま無理やり笑顔をつくった舞がいて、「ごめん、今日これから塾なんだ」と、私も困った顔を無理やり笑顔に作り変えて言った。
「それ、ホント?」
笑うのを止めた舞を見て、私は焦った。
「ホントホント! ほら、うちの親、あの件以来すごい心配してるみたいで。私がこのままだと高校にも行かないんじゃないかって思ってんじゃない? 無理やり、入れられらんだよ」
「そっか」
そう呟いてから舞は後ろを向いて、モップを用具入れの中に戻した。
「あ、舞。明日は? ヒマ?」
舞の華奢な背中にそう聞くと、舞がクルッと私の方を向いて、心から嬉しい! って笑顔して、「うんっ!」と答えた。思わず私も、笑っちゃった。
廊下の大きな窓から入ってきた白い光はほんの少し、ピンク色を帯びていて、空気がほんの少し、キラキラして見えた。窓ガラス越しに空を見上げると、真っ白だった大きな太陽はオレンジ色に、真っ青だった空がピンクに、色を変えていた。その中を泳ぐようにして白い雲が、ゆっくりと動いている。
塾の話は本当で、私は今月から週3回、代々木にある予備校に通っている。私は、学校から経堂駅までの、まっすぐな商店街をチャリで走りながら、結局舞にも、今日が誕生日だってことを言えなかったなぁ、と思っていた。まだほとんどの生徒が14なのに、私は16になりましたと、いちいち公表したくはないけれど、誰にもおめでとうと言ってもらえないのは、やっぱり少しだけ、寂しかった。
小田急線で新宿まで出て、そこからJRに乗り換えて代々木駅に着くと、空が、嘘みたいな表情をしていた。深い紫色が、空の上の方に伸びる細長い雲の輪郭を縁取り、それらが連なることで生まれたいくつかの大きな雲と、空に向かって伸びる背の高いビルとビルの間の谷間を縁取る黒いシルエットの間に見える空は、藍色から淡いピンクへのグラデーションをみせていた。道行く人は足を止め、空を見上げ、綺麗だね、と言い合っていた。私は彼等の横を駆け足で通り過ぎ、予備校の屋上へと急いだ。
<続く>


