第5章 age18 響き(2)― 彼のことが「好きだった」それだけなのに… ―
「…お母さん、明日の放課後、三者面談だから」
ベッドから起きてきたばかりの私は、パジャマのままでリビングのソファに寝転がって、いつも日曜の朝にやっているワイドショーが映っているTV画面に視線を向けたまま、すぐ隣でリンゴの皮をむいている母に言った。
「明日? 何も聞いてないわよ?」
クルクルと長い赤い皮のついた半分裸のリンゴとナイフを、ソファ前のローテーブルの上の皿にガシャッと乱暴に置いた母が、ヒステリックな要素を含んだ声で言った。
「だから今言ってるんじゃん」
私はもう、頭を抱えて耳を塞いでしまいたい気持ちだった。
「無理なら先生に曜日変えてもらうから平気だよ」
だからお願い、お願いだから、叫ばないで…。
「行けるわよ! でもどうしてもっと早く言わないの?」
もうすぐ、泣く。母の声の細かい振動で、それが分かる。
「私だって、あなたの学校に行くには心の準備が必要なんだから」
おそるおそる母の顔を見ると、目のふちが赤く染まっている。
「どうしてかは、あなたが一番わかるでしょう?」
頭にキーンと突き刺さるような冷たい声で、私の頬をカミソリの刃で切りつけるような鋭い目線でにらみつけながら、母が言った。
「…わ、わかってるよ」
私の声も、震え始めた。わかってるよ、当たり前じゃない。忘れられるわけがないじゃない。あの時応接間に流れていた空気から、あの時の自分の胸の中の絶望感まで、はっきりと全てを覚えてるよ。忘れたくたって、忘れられない。
「…ひどいよね、お母さんて」
呟くと涙がポタポタと頬にこぼれてきて、止まらなくなった。
「ひどいのはあなたでしょ? 私を傷つけたのはあなたでしょ?」
とっさに私は両手で、耳を塞いだ。耳まで涙で、ぐちゃぐちゃに濡れてゆく。いつからだろう、母が私と話をする時、自分のことを“お母さん”ではなく“私”と呼ぶようになったのは。私のことを、“あなた”と呼ぶようになったのは。母の私への失望が、自分の娘としての私へのものから、から、私という一人の人間へのものへと、変わっていったのは。最初に母の期待を裏切ったのは、私なのだけど。
だけど私はただ、あの時、
瀬川のことが好きだった。
たった、それだけなのに。
「どうするの? 高校卒業したら」
母が無理やり、私の右手を右耳からはがして聞いた。
「…進学は、したくない」
目をギュッとかたくつむったまま、私は答えた。
「じゃあ、なにして働くの?」
母の声が、妙に冷静でとても冷たくて、それは私に熱い涙を流させる。
「分からないけど、働いて、家をでる。ここからでれるなら、どんな仕事でも頑張れるから」
うっすらと目をあけて、流れては溜まる涙越しに母をにらみつけながら私がそう答えると、今まで聞いたこともないような、悲鳴に近い声をだして、母はソファの上にうずくまるようにして泣き崩れた。私は耳をふさぎ、祈るような気持ちで「お願い、やめて」と小さくつぶやく。耳をきつく押さえたところでさえぎれるわけもない、近所中に響き渡るような母の甲高い叫び声は、シュッとカミソリを振り下ろし続けるようにして、私の胸に鋭い切り傷をいくつもいくつも作ってゆく。
<続く>


