第6章 age20 写真(1)― ハタチになった、のあの隣にいるのは… ―
カシャリ。汗ばんだ皮膚にぺたりと張りつく湿気た夏の空気。その中で、真っ黒な一眼レフが乾いた音を鳴らし、真っ白な入道雲の隙間にチラリと見える灰色の空を小さく切り取った。アパートの5階に位置する狭いワンルーム。洗濯竿の置いてある細長いベランダに立った私は、両手でつかんだカメラを顔から胸に降ろし、洗濯ばさみで竿に吊るされた純也の靴下やパンツやらの間から曇り空を見上げた。私に切り取られたはずの雲も空も、形すら変えずにまだ、そこにある。
額をつたってきた汗が目に入り、私はカメラから左手を外して汗を拭う。まだ慣れないカメラの重さを右手にズシリと感じながら、何度シャッターを切ったって決して盗むことの出来ない空の下に、私はただ、立っていた。思わず左手を空へと伸ばしたが、雲をつかめるはずもなく、私はその手をカメラに戻す。今にも雨が降りそうな空の色と、雨を1滴も含んでいなさそうな真っ白い雲が、アンバランス。
「のあー、どこー?」
後ろから純也の寝ぼけた声がしたので私は振り返り、開けっ放しにしていた汚れたガラス戸と黄緑色のカーテンの間から顔を出した。立っているだけで汗がにじんでくる外よりも蒸し暑い、モアッとした部屋の中の空気が当たる。薄暗い部屋の中にうっすらと、タバコの香りがする。
「のあー、何してんの?」
私は返事をせず、フラッシュのボタンを押してから、カメラを構えた。飲みかけのコカコーラの缶に、握りつぶされたタバコのソフトボックス、ピンク色の100円ライターに、請求書の封筒なんかが雑然と置かれた小さな丸テーブルと、そのすぐ隣で、床に直接敷かれた白いマットレスの上で裸で横になっている純也をフレームに入れ、パシャッ。
「撮んなよー、俺、裸じゃん」
フラッシュに眩しそうに目を細めた純也が、向けられたカメラから逃げるように壁側に寝返りを打った。パシャッ。レンズ越しに、白い光のたかれた部屋が一瞬、目に映る。純也の寝汗でぐっしょり濡れて色を濃くしたマットレスは水溜まりみたい。寝癖のついたアッシュグレー色のボサボサ頭、汗に濡れた小麦色の背中にすーっと浮く背骨、キュッと上がったお尻。そんな純也が、私には、水溜まりに落ちていくように見えた。
「やめろよー! のあ、早くこっち来てよ」
首だけ私の方に向け、純也は大きな目を見開いて私を見た。
「え? のあ、何も着てないの? 駄目だよ、外でちゃ!」
「大丈夫だよ、ブラつけてるもん。だって、暑くって」
私はそう言いながら部屋に入ると、カメラを丸テーブルの上に置いて、純也の隣の"水溜り"の上に腰を下ろした。ジメッと湿ったマットレスの感触が、何も履いていないお尻に気持ち悪い。
「純也、汗、すごい」
私がマットレスから腰を浮かすと、ゴロンと私の方に向き返った純也の両腕に捕まった。
「駄目、のあー、いかないでー」
純也の甘えた声と、純也の腕の体温とが、汗ばんだ私の体にベタベタと暑苦しく、私は半ば本気で「やめてよ」と言いながら、頭皮からジワッと沸いてきた汗を腰までの長い髪と一緒にかき上げた。純也は、立ち上がろうとする私の体に巻きつけた腕に力を入れて、頬を背中にベトリとくっ付けてきた。
「暑いってばー!」
不機嫌な声をだしながら、私は両腕を上げて髪の毛を頭のてっぺんで束ね、手首に付けていた黒いゴムを使っておだんごにした。
「ねぇ、純也、髪の毛短く切って? 暑苦しいったらないの、この髪」
後ろからブラの中に両手を入れながら、純也が「ヤダー」と言った。
「もう少し伸びたらパーマ当てるんだから切っちゃ駄目だよー」
「パーマの練習なら他の子でやってよ」
「ヤダ、俺、のあがいーんだもん」
純也の指が乳首に触れ、それは私をイラつかせた。
「やめてよ、そういう気分じゃないんだってば」
私は純也の手首をつかんでブラの中から引き抜くと、マットレスから立ち上がってテーブルの上のコーラをひと口飲んだ。
「うえっ!!」
炭酸の抜けた、生ぬるく甘ったるいコーラは同時に物すごく苦く、とっさに口から吐き出すと、泥水のような液体がフローリングの床に散った。舌の上に残った何かを指でつまんでみると、タバコの葉っぱ。
「ごめん! 俺それ、灰皿にしてた…」
私はテーブルを足でまたいでキッチンシンクの前に立ち、純也の声を掻き消すように水道の蛇口を思い切り右にひねった。ジャーッと勢いよくでてきたぬるい水を両手ですくって口に含み、グシュグシュと口の中を隅々まですすぐ。
「のあー、ごめんね」
純也の声がすぐ近くから聞こえたので振り返ると、私の真後ろに純也は立っていた。
「オエッ」
私はとっさに純也に背を向けて、シンクの中に水を吐き出す。まだ、口の中が苦い。
「のあー、大丈夫?」
ベタリと背中に触れた純也の手の平から逃げるようにして、私はブラを外し、ユニットバスの方へ歩いた。
「シャワー浴びてくる」
「俺も一緒入っていい?」
「駄目」
ドアをバタンと閉めると、私は水色の丸が描いてある方の蛇口をひねり、目をつむり、口を開け、シャワーの前に顔を突きだした。ぬるま湯のように温かい水がいくつもの小さな穴から勢いよく飛び出して額に当たり、頬を伝い、口の中へ入り、残りの水が体へと落ちる。口の中に溜まった水を吐き出していると、額を弾く水が段々と冷たくなってゆく。私はシャワーに背を向け、水浸しの顔を腕で拭ってから、目を開けた。汗でベトベトだった背中を水がヒンヤリと冷やしてゆくにつれ、私のイライラも治まってゆく。
また、純也に当たってしまった…。私の肌が弾いた水が、ドアの曇りガラスにいくつもの水滴をつける。向こう側で、今、純也はどんな気持ちでいるのだろう。
※次回は2008年1月7日に掲載します。
<続く>


