第6章 age20 写真(2)― 愛してくれる男では、何かが足りない… ―
5か月前、高校を卒業した19の春、アルバイトの派遣の事務所に面接に行った帰り道、新宿で、私は純也に声を掛けられた。純也は美容師の見習いで、練習台となるカットモデルを路上でスカウトしていた。純也はそのときも私にそう説明したと後で言っていたが、私は話しかけてくる彼の横を早足に通り過ぎたので覚えていない。シルバー色の短い髪をツンツンとジェルで固め、グレーのコンタクトレンズを入れていた純也の第一印象は最悪だったし、甘ったるい声で「可愛い、可愛い」と連呼しながら付きまとってくるので、ただのナンパか、水商売のスカウトだと思ったのだ。
その翌日、面接に受かった私がバイトの説明会に向かう途中でまた、同じ場所に立っていた純也に声を掛けられた。「絶対に今以上に可愛しくしてあげるから、俺に髪の毛染めさせてよ」。純也はそう言った。その時、私は歩く足を止めて、「タダ?」と聞いた。うん、と大きな笑顔で頷いた純也の顔は、今思い出しても笑っちゃう。美容院の営業が終わる10時に店に来れば染めてあげる、という純也に「じゃあ、行く」と私が約束をしたのは、夜中の1時にシュウと会う約束をしていたからだ。一度家に帰ってしまえば夜中に抜け出すのは難しいし、どう時間を潰そうか、迷っていたところだったから。
美容院の鏡の前で、膝に置いた雑誌から顔を上げることもなく終始黙ってうつむいていた私に、純也は一生懸命に話しかけながら、とてもていねいに私の髪を細かい束に分けては、それをアルミホイルで巻いていた。伸ばしっぱなしだった髪を耳の下あたりまで短く切ってくれればいい、と私は言ったのだけど、この長さで毛先まで痛んでないのは珍しいから切るのはもったいない、と純也が私の注文を無視したので、私もタダだしなんでもいいや、と彼に任せることにした。
自分の髪の毛がどんなふうになっているのか興味はあったけれど、視線を鏡に向けて純也と目が合ってしまっては困るので、私は雑誌を集中して読んでいるふりをした。それは女性カメラマン、三咲欄のインタビュー記事だった。文章の羅列になんとなく目を通していたら、彼女の一言が、円盤のような赤くて熱い機械がクルクルと周りを回る、アルミホイルだらけの頭の中で、グルグル回った。
「人間が嫌いだからこそ、私は死ぬまで人間を撮り続けたい」
この人は、人間が嫌いなんかじゃない。カッコつけてそう、言っているだけだ。私はなぜかムキになって、三咲欄に対して怒りのような感情まで抱いてしまった。そして、次のページに載っていた彼女の作品、私と同じ年くらいの女の子が全裸で、舌を出して、目の前の鏡に映る自分の舌を舐めているモノクロ写真をみて、あまりの嫌悪感に鳥肌が立った。私ならこんなふうには死んでも撮らない、と雑誌を思い切り閉じた瞬間、バイト代を貯めてカメラを買おうと、私は決めた。
ブオーッと耳にうるさかったドライヤーの音がパタリと止まり、鏡の中の自分を見ると、そのすぐ後ろに立つ、笑顔の純也と目が合った。
「すっごい綺麗。のあちゃん、ハーフみたい」
私の地の栗色の髪の上に、いくつもの白いハイライトと、黒いロウライトが交互に、とても細かく入った私は、外国人みたいに見えた。
「モデルみたい」
純也の言葉は、私に、鏡の中の自分と舌絡めるところを連想させ、首の辺りをゾクッと細かく震わせた。
その1時間後、私の首筋にはシュウの舌が這い、純也が丁寧に染め上げた私の長い髪はシュウの右手にわしづかみにされ、私の背中は漫画喫茶のカップルシートの薄い壁に押し付けられていた。シュウが腰を振るたびにガタガタと大きな音を立てしまう壁をなるべく揺らさないよう、私は両手を壁に押し当てて、シュウの揺らす私の体を支えることに集中していた。シュウの舌はお酒の味がしたけれど、その夜、私は酔えなかった。
声を殺し、息を呑み、両手の指を開いて精一杯壁を押し返しながら、ヤりたい時にだけ私を呼び出し、私の体を好きなだけヤるシュウ。そして、同じようにシュウを扱う自分自身。この関係。それらに対する、酔いが既に冷めてしまっていることを、私はカラダで感じた。
次の日のバイト帰りにその足で美容院に直行した私は、純也を見つけるなり、メッシュをすべて黒く染め直して欲しい、とお願いした。セックスの後でトイレに行ったとき、シュウ好みの、ギャルっぽい女に仕上がった自分が写る鏡を、真っ黒いクレヨンで塗りつぶしてしまいたい衝動に駆られたんだ。4年前の夏にシュウと出会ってから、私の人生が狂いだしたようにさえ思えてきた。シュウが触れた髪や舐めた皮膚、私のすべてを誰かに、真っ黒に塗りつぶして欲しかった。純也は、前日に数時間かけて染めていった何本もの髪の束をまた丁寧にすくい出し、ハケを使ってまた、とても一生懸命、塗料を塗っていった。真っ黒に…。と、思っていた私は完成した髪を見て思わず吹き出した。純也は私の髪を、目がくらむほどに鮮やかなカッパーオレンジに染め上げた。
私はそれ以来、シュウからのメールや電話に返事をするのを止め、中野坂上にある純也のアパートに入り浸るようになった。2歳年上の純也は、私を笑わせてくれる、初めての男だった。
最近は、笑ってないなぁ…。後ろ手で蛇口をキュッと回してシャワーの水を止めると、背中がゾワッと鳥肌を立てる。水シャワーに芯まで冷やされた体に早くバスタオルを巻きつけたくて、私はドアを開けようと右手を伸ばしたが、ヒヤリと冷たいガラス戸に手のひらを付けたまま、ドアの向こうにいる純也と顔を合わせることを、怖いと感じた。出会った頃と何ひとつ変わらずに私に優しくしてくれる純也への甘えから、つい私は、彼にキツク当たってしまう。
日に日に膨らんでゆく未来への不安を、美容師として着実に自分の道を進んでいる純也と照らし合わせ、私は自分の中でパンパンに成長した黒い塊に、押しつぶされそうになってゆく。
あのとき、純也は、私を黒で塗りつぶす代わりに、私に新しい色をもたらしてくれた。でも、真っ黒い毒は確かに私の中に存在し、それがたまに、私の態度ににじみ、ときには口から漏れてしまう。純也が私に良くしてくれればくれるほど、それは私の悪い面を引き立て、最近私は、純也に対しての罪悪感でいっぱいなんだ。
「俺の、のあ」
中学生の頃に私が瀬川に対して抱いていたような期待を、私に寄せている純也が私をそう呼ぶ度に、ハラハラしてしまう。裏切りそうで、傷つけそうで、私は自分が怖くてたまらない。
<続く>


