第6章 age20 写真(3)― ひとりで眠りたい。家に帰って母から聞かされたのは… ―
歯がガチガチと音を立てて震えだしたので、私はドアを開け、すぐ隣のラックの上に置いてある真っ赤なバスタオルを広げて、体を包んだ。さっきは私をムシャクシャとさせたモアッとした蒸し暑い部屋の空気が、冷えたカラダに心地よく鳥肌を立てる。
なんだ…。視界に入った純也の姿に、私は一瞬イラッとした。マットレスの上に、寝汗を更に濃くにじませながら、小さな寝息を立てて、純也はスヤスヤと眠っていた。私は丸テーブルとマットレスの間に腰を下ろし、床に置いたままになっていたヴァージニアスリムの箱から1本タバコを取りだして、ピンク色のライターで火をつけた。細い煙を吸い込むとメンソールがスーッと喉を冷やす。開けっ放した黄緑色のカーテンの隙間からのぞく入道雲は、いつの間にかグレー色を帯びていた。きっと、雨が降る。
まだら。雲を見つめていたら、ふと頭に、純也と出会ったばかりの頃、鏡の中に写っていた自分の顔が思い浮かんだ。カッパーオレンジに染めた髪に、私は毎朝黒染めスプレーをかけてバイトに通った。夕方には、黒い塗料が洋服の襟を汚し、私の頭はまだらになって、それを鏡で見るたびに、私は舞を思い出した。茶髪を黒スプレーで隠しながら、まだらな頭で中学に通っていた、当時の舞を。
純也と付き合うようになってから、私はときどき舞のことを考える。二人は少し、似ているのだ。あまりにまっすぐに私にぶつかってくるから、私は、クルッと背を向けて逃げ出したくなってしまう。そこがとても、似ているのだ。
テーブルの上に置いてある純也の腕時計を手に取って見ると、まだお昼の1時過ぎ。カタッと時計をテーブルに置いてから、私は振り返って純也を見た。ここ数週間働き詰めで久しぶりの休みだから、まだ寝ていて当たり前なのだけど、私の心の中の葛藤にも気づかずに赤ん坊みたいな顔して眠る純也に、私はイライラしてしまう。そして、そうなってしまう自分に、グッタリする。頭皮にまたジワッと沸いてきた汗がなんだかかゆくて、おだんごにくくった髪の毛の根元を爪でかきながら、数か月ぶりに、エアコンの効いた部屋で一人で眠りたい、と思った。今日は家に帰ろう…。私は立ち上がり、短くなった白いタバコを赤いコーラの缶の中へと落とした。
ジュッ。甘ったるく苦く、ドス黒い液体が、音を立てて火を消した。
頭のてっぺんで適当にくくったおだんごからはずれた髪の毛が、目の前をヒラヒラ舞っては、汗ばんだ額にべたりと張りつく。視界に入る髪の毛の向こうでは、綿飴みたいに白かった雲が、空の灰色をぐんぐん吸収しているかのように縁取りを黒ずませながら拡大し、西から東へ、ゴーッと音を立てて吹き荒れる風に勢いよく流されてゆく。経堂駅から家までの、どこよりも見慣れた商店街の風景から逃げるように、私は上を向いて歩く。
腕に掛けていたバッグを肩に掛けなおし、手の甲で額の汗と髪の毛を一気にぬぐうと、ポツッ。冷たい水が一粒、額に落ちた。ポツッポツッ。右の肩と、左の頬にも。
雨だ…。風の中に散る雨の滴を見つけようと、雨雲に覆われた黒っぽい空を見る目を細めると、チカッ。カメラのフラッシュのような一瞬の強い光に、目が眩んだ。私はバッグの中の一眼レフを思い出し、慌ててバッグを肩から降ろして胸に抱きかかえた。
ゴロゴロゴロッ! 思わずビクッと体が震えてしまうくらいの爆音で、落下から少し遅れて雷の音が街中に響き渡った。ずっと上げていたあごを今度はぐっと引いて、スコールのように激しく降り始めた雨の中を走る。一直線に続く商店街を、激しく叩きつける雨にずぶ濡れになって黒くなったコンクリートを、ひたすらまっすぐ、足で蹴る。サンダルと足の裏のあいだに入った水が、走るたびにキュッキュッと音を鳴らし、左右交互に視界に入る両足のデニムの裾がみるみる色を濃くしてゆく。
じっとりとした蒸し暑い空気を一気に冷やしたスコールは、私の肌にべっとりと張りついていた汗をすべて洗い流し、家のドアに鍵を差し込む私の指先は冷たくかじかんでいた。強風は黒い雲を隣の街へとさらってゆき、今はパラパラと静かに雨が降っている。
私は、なるべく音を立てないようにゆっくりと鍵を回した。友達の家に泊まる、とだけ伝えたまま数か月もの間、一度も帰っていなかったのだから。ドアを開けたら、急いで玄関の横にある階段を上がり、そのまま自分の部屋に行けばいい。本当は熱いシャワーを浴びたいのだけど、母と顔を合わせることを考えたら、我慢しよう。そっと両手でドアを開け、なるべく物音をたてないように気をつけながらサンダルを脱いでいると、ガチャッ。廊下の向こうでリビングのドアが開く音が聞こえた。やばい。
「のあ?」
母の声がして、スリッパが床をパタパタと踏む音が近づいてくる。
「やだ、ずぶ濡れじゃない!」
私を見るなり母はそう言って、そのまま浴室へと入っていった。
「うん、なんか急に雨降ってきて…」
バスタオルを持ってでてきた母にそう言いながら、私は予想外の母の対応にホッとしながらも少し、戸惑っていた。純也のアパートに入り浸るようになって間もない頃は、母から一日に何度も電話があった。実家のリビングで受話器を片手に、私を心配して電話をかけている母の様子を思い浮かべながら、手の中で携帯が鳴り終わるのを待つという行為は毎回とても苦しかった。だけど電話に出ることはもっと怖くて、私はこの数か月間、母からの電話をすべて無視してきたのだ。それなのに、母の手は、私の頬を引っ叩く代わりにピンクのタオルを差しだしていて、母の唇は、私を罵倒する言葉を吐きだすことなく微笑んでいる。
「ありがと」
声が少し、震えてしまった。優しくされると泣きたくなるのはどうしてだろう。殴られるより、怒鳴られるより、よっぽど胸がきつく締め付けられて、苦しくなる。
「早く上がりなさい。風邪引くわよ!」
手渡されたタオルで顔を拭きながら家に上がると、ずぶ濡れたデニムからポタポタと水が垂れて、母は「服を着たままシャワー浴びたみたいね」と呟きながら、「よいしょ」とかがんで、手に持っていたもう一枚のタオルで床を拭いた。
「のあ、留守番電話に伝言残したんだけど、聞いた?」
床を拭く手を止めて、母が私を見上げて言った。
「…あ、ごめん。バイトが忙しくて聞けてなくて」
口からとっさに出たバレバレの嘘を指摘することもせずに、母は立ち上がり、話を続けた。
「あなたの中学のときの同級生が亡くなったの。連絡網がまわってきてすぐに連絡したんだけど、あなた電話出ないから…。もうお葬式も終わっちゃったわね」
「え…。同級生って、まだ二十歳でしょ?」
肌にぴったりと張り付いた冷たいTシャツの下で、心臓がトクトク、音を立てて鳴り始めた。同級生といっても、私には顔と名前が一致しない生徒ばかりなのだけど、それでも、自分の身近で起きた自分と同じ年の人間の死は、信じたくない事実として私をおびえさせる。
「餓死、ですって。拒食症だったみたいなの」
「……」
思わず私は持っていたバスタオルを床に落としていた。
「あなたもガリガリじゃないの、ちゃんと食べているの? すごく心配で…」
目の前でタオルを拾っている母の声が、遠くに聞こえる。
「何年の時の同級生? 名前は?」
母の肩を私は両手でつかんでいた。
「最後の年よ。矢井田さん。あなた仲良かった?」
キーン、と小さく、耳鳴りがした。
<続く>


