第6章 age20 写真(4)― いちばんツラいとき、側にいてくれた舞が… ―
矢井田、舞?
声が出なくて、息を吸った。
「矢井田舞!?」
突然大声をだした私に、驚いた表情で首だけコクンと縦に振った母の肩から、私の両手は滑り落ちていた。冷たかった指先が、細かく痙攣(けいれん)しているような感覚で熱を帯びてゆく。目の前で動いている母の唇から、声は何も聞こえてこない。
一段、一段、階段をあがるたびに、足にぐっちょりとへばり付いたデニムが重たすぎて、思うように動かなかった。自分部屋のドアを背中でバタンと閉めたときにはもう、立てなくなって、私はそのままフローリングに尻餅をついた。
舞が、死んだ?
「あたし先輩の味方っすから。舞って呼んでください!」
シーンとした教室の中で、私が今までで、いちばん辛かったあの朝に、そう言って笑った舞の八重歯を覚えてる。黒染めスプレーでまだらになった舞の頭に、透明のピアスが突き刺さって赤く痛んだ舞の耳たぶも。
「先輩と友達になれて、あたし超うれしいんっすよ」
全校集会をサボって非常階段で一緒に見上げたあの日の空は、薄い青で、雲も薄くて、綺麗だった。体を屈めて舞が吸ってた、タバコの細くて白い煙と、その吸殻。
「彼氏と会うときに着たいんだけど、どう? オトナっぽく見える?」
一学期も終わりに近い7月の放課後、渋谷のアルバローザで黒いロングワンピを試着して、鏡の前でクルクル回っていた舞の細い体と、そこに無数についてた、痛々しいほどのキスマーク。
「高校生の女ってやっぱあたしよりオトナだし、彼氏が浮気したのも無理ないっつーか。所詮、中坊のあたしじゃ、どんなに頑張ったって無理だったっつーか、」
真冬のマラソン大会で、号泣しながら歩いていた舞が手に握りしめていたホッカイロと、私たちの上に広がっていた、雲ひとつない、眩しいほどに快晴の空。
あの舞が、拒食症で、
あの舞が、餓死して、
あの舞が、死んだ…?
「どうせ渡す勇気ないのに、奴に手紙ばっか書いちゃって、見て、指にペンダコできちった」
卒業式の練習中に、体育館でやつれた頬で悲しく笑った舞が突き出した、右手の人差し指の赤いタコを思い出す。
あの頃から、
吐いていた?
気づけなかった。全然、分からなかった。舞のこと、何も見えていなかった。だって私は、空ばかり、見ていたから。
私は両手で頭を抱え、ツメを立ててびしょ濡れた髪の毛を掻きむしった。ゴムがはずれておだんごが崩れ、長い髪が肩のところでぐしゃぐしゃにこんがらがった。舞に、私はあんなにも助けられていたのに、地獄のようなところに立っていた私を救ってくれたのは舞なのに、私は舞を最後まで信用し切れなくて、裏切られることが怖くて、自分だけを守ることに必死になって、私は舞から逃げていた。それなのに私は一人でいることも同じように恐れていて、舞に一緒にいてもらいながら、一定の距離は保つようにして接していた。それってなんて、卑怯なんだろう。
濡れた洋服に包まれた全身の皮膚が鳥肌を立て、上下の歯がガチガチと震え出し、私はひざを抱きかかえて小さくなった。自分を抱きしめるようにして、ひざの上に額をくっつけて丸くなって、自分の体にしがみ付いた。それでも震えは止まらずに、指先までブルブルと震え出した。
舞は、一人で死んでいったんだ。一人でいたくないときに一緒にいてくれた人間を、私は一人ぼっちで死なせてしまったんだ。
「のあ? のあ? 大丈夫?」
ドア越しに母の声が聞こえて、ドアが私の背中を押した。
「あ、開けないで! ひ、一人に、して、お、お願い」
涙が絡んだ自分の声で、私は自分が泣いていることに気がついた。
「…のあ、ドアの前に、タオル置いておくからね」
「……」
「…大丈夫?」
「……」
「じゃあ下に戻るけど、また来るからね」
「……」
まだ母がドアの向こう側に立っているのがわかったから、両手で口をきつく押さえて、声を殺して、私は泣いた。しばらくして母が階段を下りていく音が聞こえると、ドワッと泣き声が手から溢れて、同時にオエッと嘔吐した。雨と涙とゲロにまみれた体でゲホゲホと咳き込みながら、私は大声をだして泣いた。でも、どんなに涙を流しても、全然足りない。さっきの土砂降りの雨のように泣ければいいのに。体内の水分すべてが涙としてでて、体が干からびて死んでしまうくらいに泣けたらいいのに。あぁ、震えが、止まらない。
目を覚ますと、私は自分のベッドの中にいた。真っ暗な部屋の中に、雨の音はもう聞こえない。頭が重く、枕に深く沈んでいる。目がとても熱くて、少ししか開かない。布団の中で手をお腹に当てると、パジャマを着ていることに気づく。あ。お日様の匂い。掛け布団だ。
お母さん。
火照ったまぶたよりも更に熱い涙が静かに流れては耳の中に溜まってゆく。朦朧(もうろう)とした意識の中で、私は鮮明に思い出す。返事を書くことができなかった、舞が卒業式にくれた手紙の内容を。プーさんの便箋の上にびっしり書かれた、小さくて丸くてギャルっぽい、舞の字を。
<続く>


