第7章 age21 記憶の中の空(2)― シュウのなかに救いを求め、舞との記憶を探り… ―
2か月前。冬が終わり、木々が緑の芽をだしはじめていた3月上旬。純也の美容院に置いてあった雑誌の中にたまたま見つけた三吹欄のアシスタント募集。私はほんの軽い気持ちで応募した。自分で撮影した写真を一枚同封すること、という応募要項を見ても、一眼レフで撮影した写真のネガの現像代を誰かに借りる気さえ起きなかった。机の中に入れていた、使い捨てカメラで撮った空の写真を送ったくらいで、本当にただの好奇心だった。
応募したことすら忘れかけていた4月の下旬。突然携帯に三咲欄本人から電話があって、面接に呼ばれ、アシスタントとして採用されることが決まった。その時、私は突然、とても大きな期待を胸に抱いてしまった。三咲欄は人気カメラマンだし、アシスタント募集にはそれなりの数の応募があったはずで、その中でたった一人選ばれたということは、もしかしたら、私には写真の才能があるんじゃないかって。
空が好きで、二度と同じ表情を見せてくれない空をカタチに収めておきたい思いから、私は空の写真を撮るようになった。本当にただ、それだけだったから、写真を撮ることを仕事にするなんて考えてみたこともなかった。私には無理だと、考える前から決めていたからかもしれないけれど。でも、だからこそ私は、自分で認めるのも恥ずかしいくらいに浮き足立ってしまっていたんだ、採用が決まった時。
長い間、肌にベタつく雨ばかり降らしていた分厚い雲がサーッと退き、やっと現れた真っ青な空が、私の頭の上に太陽の光をサンサンと注いでくれたような気分だった。
それなのに、張り切って臨んだ仕事初日から、1週間、2週間、と経つ中で、私は次第に不安になっていった。もちろん、最初からカメラに触らせてもらえるなんて思ってはいなかったし、師匠の機材の入った重たいバッグを持って歩いたり、カメラの脚立や照明器具を組み立てたり、撮影後の片付けをしたり、という雑務がアシスタントの仕事だということはわかっていたけれど、それでも、モデルが切らしたタバコをコンビニまで買いに走ったり、車に積み切れなかった大きな荷物を担いで一人で電車に乗って事務所まで戻ったり、朝まで一人で事務所に残って師匠のクライアント先への請求書を書いたりしていたら、体力的にしんどくなってきた。そして、それに輪をかけるようにして、三咲欄の私に対する横暴な態度が私を精神的にも追い込んだ。
「やっぱり貴女、少し色っぽすぎる。もし、私のクライアントに貴女が口説かれているところを発見したら、すぐに貴女をクビにするから」と、初日に私を見るなり三咲欄は言った。面接の時に指示された通りにスニーカーをはいてきた私を、ハイヒールの高さ分だけ見下して、パープルのシャドウを乗せた切れ長の目を更につり上げながら。
彼女のその目は私に、中学時代の女教師が私に向けた伊達メガネ越しの視線を思いださせ、私の額にジワリと脂汗をにじませたのだけど、「スキを作らないようにキリッとしていなさいよ」と続けた彼女の声に、女独特の嫉妬心は含まれてはいなかった。私はホッと胸をなで下ろしながらも緊張したまま「はい」と答え、彼女の忠告通りに行動するよう心がけた。するとその数日後、「愛想笑いひとつできないあなたは周りのスタッフから大変に不評だ」と、「あなたは私の評判まで下げてくれるのか」と、耳鳴りがするほどの声で怒鳴られた。
初めてのことだらけの不慣れな環境で、雑用とはいえ与えられた仕事をこなすだけで必死だった私は、一体どんな顔をしながら動けばいいのかさえ分からなくなってしまった。
もう、正直、逃げだしてしまいたい。私の人生最悪の日になるはずだった、中3をダブったあの春の朝が、ここ数日間ずっと続いている。
「あたし、憧れてたから、先輩に。絶対に来づらいはずなのに、先輩、堂々と登校してくるじゃないっすか。強いなぁ、カッコイイなぁ、って」
あの朝、舞がくれた言葉を頭の中で何度も繰り返して、私はなんとかベッドから体を起こして両足を床に着けた。右足の裏に、コンドームの空袋がくっついた。
私の唯一の救いは、
今も変わらず、
シュウの体と舞…。
あの頃、人生のどん底に立っていると思っていた私の足は、今も同じところをペタペタと歩いている。
こんなの、嫌だ…。
私は立ち上がって、慌ててベッドの下に落ちたままになっていたデニムをはき、白いTシャツが見つからずにしばらく部屋の中をグルグルと回った。デジタル時計は"6:56am"と映しだしている。渋谷のセルリアンホテルに7:30集合なのだ。目をチカチカさせる水玉模様の壁が私を猛烈にイラつかせた。ベッドの上の布団を床に引きずり下ろしてやっと見つけた、白いシーツの中にまみれていたTシャツをつかんで頭からかぶり、テーブルの上に置いていた携帯をバッグの中に投げ込んで肩にかけると、急いでサンダルに足を滑らせた。
あ! スニーカーを持ってくるの忘れた。
赤いサンダルの中の、綺麗にペディキュアされた足の爪を見ながら、私は心底自分に失望した。シュウに会うからってシルバーのラインストーンまでのせちゃって、そんなことにかまけてこのチャンスを逃したら、私は本当にバカだ。私はハンガーにかけてあったトレンチコートを右手でガッとつかみ取り、左手でドアを押し開けた。
<続く>


