第7章 age21 記憶の中の空(3)― 嫌味な上司、アシスタントとしての日々に追い込まれ… ―
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数時間前に私がいた安ラブホテルの部屋とはまるで違う、白を基調とした上品なスイートルームの中で、ピピピ、パシャッ、とストロボをたいて光の具合の調節をしている三咲欄と先輩アシスタント、里中洋平。ふたりのやり取りを、私はただぼんやりと眺めている。光の度数を示す専門用語が飛び交うふたりから少し離れたところで、私は手持ち無沙汰な両手を後ろで組み、撮影の邪魔にならないように壁に張りついている。
里中は私より4歳年上の26歳で、三咲のアシスタントについて3年半になるという。半年後には独立してカメラマンになるらしく、それまでに私が仕事を覚えなければ自分が師匠から解放してもらえないから、といろいろと私に教えてくれる。彼と三咲とのあいだに、最低でも一度は体の関係があったのではないか、と私が思うのは、彼のそのヴィンセント・ギャロチックな風貌が、37歳で独身の三咲欄の好みのように思えてならないからだ。でも、実際はどうなのだろう。
「ちょっとそこ、いいですか?」
三角のスポンジを手に持ったヘアメイクの女性にそう言われ、私は慌てて「すみません」と脇にずれた。彼女は私の横をすり抜けてベッドのほうへと歩いていき、その真ん中に片膝を立てて座る白人モデルの額を、スポンジでトントンと叩いた。カメラを手に持った三咲欄が、振り返って私をにらみつけた。すみません、私は心の中でもう一度謝って軽く頭を下げたが、三咲は私に背を向けてカメラを構えていた。ヘアクリップでひとつにまとめられた長い黒髪が、背中をはう細い蛇のように見える。
ヴィヴィッドなターコイズブルーのシーツの上のモデルは、黄色いシルクの上に黒い刺繍がほどこされた小さな下着だけを身に着けた姿で、細くて白い両腕を上げて金髪の長い髪をぐしゃぐしゃにかき上げている。顔に垂れたいくつかの毛束を、ヘアメイクの男性がバランス良く目にかかるように直すと、眉のすぐ下から下瞼まで、グレーのシャドウでぐるりと囲まれた真っ黒なモデルの目元に、金髪が浮き上がってみえる。怒ったような表情で三咲欄の構えたカメラの中を睨みつける、その奥の青い瞳はうつろで、怒りに澄んではいない。カシャッカシャッカシャッ。連続するシャッター音が部屋に響きわたり、そのたびに里中の前に置かれたMacのパソコンの中に写真が表示される。それを覗き込むファッション誌の男性編集者が、「カッコイイ」とつぶやいた。
確かにモード的にはこれがカッコイイのかもしれないけど、私は好きじゃない。ほおのこけた外国人モデルの最先端のメイクも、彼女が身に着けた最高級のランジェリーも、彼女が座る色鮮やかなベッドシーツも、人間がつくりあげた画であり、そこには人間が勝手に思いこんだ"美しさ"しかない。なんて、ちっぽけなんだろう、人間って。そもそも、カメラを人間に向けたときにフレームがあまっちゃうから、それを埋めるようにメイクやら、衣装やら、小道具やらを使っているんだ。空は、逆に、フレームに収まりきらないほどに大きいのに…。人間って、なんて、ちっぽけなんだろう。
「いい表情、でてきたね」
三咲の声に、パソコンの画面から目を離してベッドの上のモデルを見ると、何か悪巧みをしているように意地悪く微笑んだ彼女の青い瞳が、晴れた夏の日の海面のようにキラキラと光っていた。急に、初めて三咲の写真を見たときのような嫌悪感に襲われ、思わず私は一歩後ずさりした。冷たい窓ガラスに後ろ手をつけながら、私は気づいた。私はこれが何よりも苦手なんだ。この、自分の美しさに酔っ払った女の姿が。
今、私の背中の後ろで果てしなく広がっているだろう空に、視線を逃がしたくて仕方ない。
レフ版を丸いケースの中に片付けながら壁の半面以上を使った大きな窓を見ると、幾つもの連なる雲のあいだから眩しい光をこぼしながら空を青く照らしている太陽は、すでに西へと傾き始めていた。順番に部屋をあとにしてゆく、モデルやヘアメイクやそのアシスタントに「お疲れさまでした」と言っていると、編集者も見送りに下まで行ったようで、いつのまにか三咲と里中と私の三人になっていた。ふぅー、と伸びをしながら三咲がヘアクリップをはずすと、長い髪が腰の辺りで揺れ、ふわっといつもの女っぽい香りが広がった。何の香水をつけているんだろう。
「中山、」
その甘い香りとは似ても似つかぬ三咲のきつい口調に、機材の入った黒いバッグのジッパーを閉めていた手が止まる。
「はい」
しゃがんだままの姿勢で見上げた三咲の顔は、逆光で影になっていてよく見えない。慌てて立ちあがると、ヒールの高いサンダルをはいた私が三咲を見おろす図式になってしまった。三咲が眉間に深い皺を2本入れて、言う。
「この荷物全部ひとりで事務所まで持って帰ってちょうだい」
「ひとりで、ですか?」
部屋を軽く見渡してから、私は途方に暮れた声をだした。撮影のために持ちこんだシーツやクッションなどの小道具が入った大きなバッグ2つのほかに、照明器具を入れた大きなトランクが2つもあり、それらは今朝、里中が車で運びこんだものであり、私ひとりで電車で運ぶのは、絶対に無理だ。
「そうよ。私これから打ち合わせがあって、洋平にも一緒に来てもらうから」
三咲は里中のことを名前で呼ぶ。彼女は私に、クライアントに口説かれているところを見つけたらクビだと言ったけれど、それは里中のことを言っていたのかもしれない、と思った。
「あの、三咲さん、俺、どっちみち事務所、戻らないといけないんですよ。4時に広告の方が写真選びにくるんで」
里中が私たちの後ろでそう言うと、三咲は里中の方を振り返って「あ、そうだったっけ」と呟いて、私のほうはもう見ずにスタスタと部屋から出て行った。
両肩に大きなバッグをかけて、レフ版のケースを手に持って駐車場を歩いていると、ヒールで不安定な足元がグラグラした。物すごく情けなくて、とてもみじめな気持ちだった。もう私は三咲に完全に嫌われてしまったのだろう。緑色のボルボの前で足を止めた里中に続いて立ち止まり、里中がスーツケースを入れるのを待ってから私もトランクの中にバッグを降ろした。助手席のドアを開けると、「それ後ろに置いちゃって」と、運転席に座る里中に言われたので、座席の上に置いてあった書類を持ちあげた。するとその中から一枚の写真がヒラヒラと舞って、座席の下の黒いマットの上に落ちた。
「あ、」
アシスタントに応募する時に私が送った、あの空の、シュウと出会った夕方に撮った写真だ。書類を胸に抱えたまま私はしゃがみ込んで、それを手に取った。
<続く>


