第9章 age25 落日(2)― シュウを駅まで迎えに行き、見たものは… ―
やるべきことをすべてやり終えて、また時間を持て余しはじめた私は、コートを羽織ってベランダに出た。タバコに火をつけて、煙を深く吸い込んだ。空気が、ひどく冷たい。日が、落ち始めていた。嫌いだ。こういう時に、待たされること。慌てて抱かれる準備をしていた自分が、ひどく惨めに思えてくる。これで、もし、シュウが来なかったら、私はとても傷つくだろう。
あまりの寒さに、足がガタガタ震えだす。私は急いでタバコをもう一口吸ってから、灰皿の上で揉み消し、ガラス戸を押し開けて部屋の中に戻った。ベッドの上の携帯が、着信を知らせる緑色の光を小さく点滅させているのを見た時、私は胸をなでおろす思いだった。私は黒いマフラーを首に巻きつけてから、UGGのムートンブーツを履いて、駅に向かった。
いつもは13、4分はかかる駅までの道のりを10分くらいで歩くと、駅が見えてくる頃には息が切れた。私がハァハァ言うたびに、オレンジ色を帯び始めた周りの空気が白く濁る。私はマフラーをとって横断歩道を駅のほうへと渡ると、タクシー乗り場の横のベンチに腰をかけてタバコを吸っているシュウの姿が見えた。黒いPコートの襟を立てて、寒そうに腕を組んでいる。
「ごめん、寒かったよね」
ベンチの前まで行って私が声をかけると、シュウは黒いサングラス越しに私を見た。口元で小さく微笑んでそして、「おせーよ」と言う。久しぶりに会うたびに、いい意味で、期待を裏切るシュウのルックス。またかっこよくなったな、と地面にタバコを捨てて、スニーカーで揉み消しているシュウを見下ろしながら、私は思った。髪、伸びたな。黒い髪を、頭の上でちょんまげみたいに括っている。
「髪、伸びた?」
急に立ち上がったシュウがそう言うので、「あ、今それ思ってた」と私が答えると、
「…いや、のあの髪」
「あぁ、そうかな? そうかもね」
私は、肩より少し下に伸びた毛先に触れながら、噛み合わない会話に少し慌ててしまった。そんな私をシュウは笑って、右腕を私の腰にギュッと力強く回してきた。体がシュウの体に引き寄せられる。いつまで経っても私が慣れることのできない、こういうシュウの慣れた仕草。シュウは、私の心臓を何度つねれば気が済むのだろう。
「どっち?」
シュウが聞き、私は「こっち」と答え、二人で横断歩道を渡る。私の胸の内に気づくはずもないシュウの横顔は、ヒールを履いていない私の目線から、今日はやけに遠い。
「さっみー!」
シュウの息がつくった白い丸が、私の顔にかかる。
「はやく、したいね」
私が言うと、シュウはニッと笑った。
「のあって、何? 俺のカラダ目当てなの?」
自分で言った言葉に、シュウはまた笑った。私は歩く足を止め、真顔でシュウを見つめた。
「そうだよ。シュウもそうでしょ? 」
「んっだよ。マジになんなよ。俺はそうともかぎらねぇよ」
そう言って歩き出したシュウに、私は思わず鼻で小さく笑っちゃった。シュウの隣で歩きながら私はうつむいて、自分のブーツの先を見つめて言った。
「いらないよ、そういう色恋。今更すぎてきもちわるい」
「…落日」
足を止めたシュウが、左手でサングラスを外して、そう言った。私も足を止めて視線を上げると、目の前で、オレンジ色に輝く大きな太陽が、地球の裏側へと沈み始めていた。
周りの空気は、燃える太陽に溶かされるようにして赤く染まり、その逆光を浴びた周りのビルや電柱、四方八方に伸びる電線は、真っ黒い影絵のよう。空の上の方はまだ青く、その中に浮かぶ雲は、日没の光を受けてうっすらとピンク色を帯びていた。綺麗…。私は、カメラを持ってこなかったことを後悔した。
「知ってる? 落日」
シュウが私に聞く。
「知ってるよ。日が落ちるってことでしょ」
「ちがくて、歌。東京事変の『落日』。俺、その歌聴くと、のあを思う」
私は、何て答えていいか分からなかった。その曲も知らなかったし、夕日に照らされたシュウが今、どんな目をしているのか、なんだか怖くて見られなかった。早く帰ろう、とシュウの背中に左腕を回しても、シュウの体は動かない。少し戸惑う視線でそっとシュウを見上げると、今まで見たこともないほどに悲しい目をしたシュウがいた。彫りの深いシュウの横顔をくっきりと形取るオレンジ色の強い光が、私の目の奥に突き刺さり、思わず私は目を反らした。
「今年最初の夕焼けじゃん、これ。なんか、綺麗じゃんな」
9年前。夕日の光を反射させ、怒りに澄んだ目をキラキラと光らせていたあの少年を、悲しませることって一体なんなのだろう。悲しませるのは、一体誰なのだろう。沈んでゆく太陽と共に、私の気持ちまで、何処か深いところへ沈んでしまいそうだ。
「さみっ。早く行こうぜ。早くあったかいとこで、のあ抱きてーよ」
歩き始めたシュウに引きづられて転びそうになりなった私は、アハハと笑ってシュウを見た。悲しい目は消えていて、そこにはいつものシュウがいた。私はホッと安心して、シュウの背中を軽く叩いた。「バーカッ」。
家に着いた頃にはすっかり日が落ちていて、玄関のドアを開けると部屋の中は真っ暗だった。電気をつけると、スニーカーを脱いでいたシュウが部屋を見渡して、「広いね」と言った。そしてまた、悲しい目。
<続く>


