第10章 age25 恵みの雨と土の香り(1)― いつもように三咲の家に向かうのあだが… ―
ここ数日間、灰色の分厚い雲が太陽をすっぽりと隠している。この曇り空はいつ雨を降らしてもおかしくないように見えるのに、真冬の冷たい空気はカラリと乾いている。私は歩いている足を止めて、ポケットからリップクリームを取り出した。人差し指で少量をすくうと、薄い皮がむけてヒリヒリと痛む唇の上にそっと乗せる。指に伝わる唇の柔らかさに、ふとシュウを思い出した。
もうすぐ、2月も終わる。シュウとは正月に会って以来、連絡を取っていない。また、しばらく会わないような予感がある。半年か、1年か、2年か、分からない。だけどきっと、次に会うのは、ずっと先になるだろう。あんな気持ちになるのなら、もう二度と会いたくないという気持ちと、だけどまたいつか、必ず会ってしまうだろうというぼやけた確信とのあいだで、私の心は少し揺れる。リップクリームのキャップをしめてポケットの中に戻してから、また歩き出した。すると携帯が鳴り、頭の中からシュウは消えた。
「もしもし。お疲れさまです」
「中山? もうこっち向かっちゃってる?」
三咲だ。15時からベビーシッターを頼まれていて、三咲の住む高層マンションは既に視界に入っている。腕時計を見ると、15時5分前。時間に厳しいくせに、自分の都合によっては、すぐこれだ。
「あ、キャンセルですか? 大丈夫ですよ」
努めて明るい声を出してそう言うと、三咲は不機嫌な声で答えた。
「いや、だから、もう向かってるかって聞いてるの。今どこよ?」
「…もう、すぐ近くにいますけど、でも」
「じゃあ来て」
私が答える前に電話が切れた。一度師匠だった人との師弟関係は独立した後も永遠に続くのだと、こういう時に改めて思う。といっても三咲は、子供を生んだ今も、現役のビッグネームのカメラマンだ。三咲は、光君を生んだ半年後、休業からちょうど1年経った去年の夏に仕事復帰した。それ以来、彼女は以前からの勢いに輪をかけるように、さらなる活躍を続けている。
復帰一作目として三咲が手がけた広告写真が、広告賞を総なめにした。大手化粧品メーカーが発売した3種類の口紅の広告写真が、タイプの違う3人の女優の個性と各商品の魅力とを絶妙なバランスを持って引き出されている、と絶賛されたのだ。
今は、彼女名義で発売する作品集の製作に追われているらしい。元師匠である妻の快進撃に、元弟子であり、今は夫の里中は、大いに刺激を受けているらしく、彼もまた忙しくしているようだ。三咲と里中はまだ1歳2ヶ月の光君のために、フルタイムのベビーシッターを雇うことも多く、私も週に1度のペースで頼まれる。
また、三咲からの着信だ。
「あ、光が寝てるからインターフォン鳴らさないで。着いたら携帯鳴らして」
「今、もうエントランスにいます」
電話は切れ、目の前のガラス扉がジーッと小さく音を立てて左右に開いた。床に敷き詰められた白いタイルは、ガランとした広いロビーの中にヒールの音をカツカツと響かせる。私はエレベーターに乗って、38階のボタンを押した。
アンロックされたドアを押し開け、三咲のハイヒールや里中のブーツ、子供用のとても小さなスニーカーが転がっている玄関の隅に、黒いパンプスを揃えて脱ぐと、私は部屋にあがった。光君が寝ているであろう子供部屋の前の廊下を、黒いタイツを履いた足を滑らせるようにして歩き、リビングへ向かう。
大きなレザーソファの上には、脱ぎ散らかされた洋服が山積みになっていて、テーブルの上に広げられた作品集の資料には、ワイングラスを置いた跡が丸くついている。そのすぐ下に、空になったワインボトルが転がっていて、その下に敷かれた白いラグには小さな赤いしみができていた。
週1度のハウスキーパーがやってくる2、3日前になると、この3LDKの高級マンションは散らかり果てる。三咲の姿が見当たらないので、私は半分開いているベッドルームのドアの前に立って、声をかけた。
「師匠?」
「こっち来て」
<続く>


