第10章 age25 恵みの雨と土の香り(3)― 低く太く、心地よいくまさんの声に… ―
「あれ? 打ち合わせ、19時からで合っているよね?」
約束の時間ピッタリにカフェの階段を下りてきたくまさんは、私の前にある飲みかけのホットミルクティと、その後ろにある空のサラダボールを見つけてそう聞いた。太く、低く、だけととても良く通る、いつものいい声だ。慌てた様子のくまさんに、私は思わず笑ってしまう。
「そうです、合ってます。前の予定がかなり早くに終わってしまったので、先に来て食事していたんです。驚かしちゃってすみません」
くまさんは、あぁよかった、と微笑みながら首に巻きつけていたボーダーのマフラーをぐるぐるとほどき、テーブルにやって来た店員にホットコーヒーを注文した。
「いやぁ、今日はひどく冷えるね。雨もパラパラ降ってきたし」
イスに座るなりくまさんはそう言って、テーブルの上で両手をこすり合わせた。指先は赤く、とても冷たそうなのに、大きな手の平はとても暖かそうにみえる。
「雨、降り始めたんですか。地下にいたから全然分からなかったです」
「そう。やっとね。水不足っていうから、恵みの雨だね。僕は、部屋の中から雨の音を聞くのは大好きなんだけど、外にいるときはやっぱりちょっとね」
「あぁ、それ、分かります」
生ぬるくなったミルクティが、ほんのりとした甘さをともなって口の中に暖かく広がった。くまさんと会うのは先月のレストラン取材以来だ。いつも、会うたびに、私は彼が好きだなぁと思う。くまさんは運ばれたコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れてから、カップを口に運び、白い湯気に目を細めた。
「では、さっそくですが」
くまさんはキャンパス地のトートバッグから、3冊の本を取り出した。来月発売の4月号で企画をひとつお願いしたい、としか聞いていなかったので、くまさんが私に差し出したハードカバーの小説を、何だろう、と不思議に思いながら受け取った。
「佐伯一人。この本がベストセラーになった若手作家なんですけど、ご存知ですか?」
私は、あ、いえ、と自分の無知を少し恥じながら首を横に振った。
「彼に、"旅立ち"についてのエッセイを書き下ろしてもらうことになったんですね。で、 彼の文章の背景に、空の写真を使いたいと思っていまして。
去年、あ、一昨年か。バリで、見せてもらったでしょう、中山さんの写真。空の一瞬の表情を、決して逃さないように切り取っている感じがとても切なげで、とても印象的だったんですよ。だからこれは是非、中山さんにお願いしたいと思いまして」
「ほ、ほんとに…」
声が震えて、続かなかった。私は深く息を吸い込んでから、
「本当ですか?」
すると今度は声が大きすぎたようで、前のテーブルに座る若いカップルが一瞬パッと振り返って私のほうを見た。
「そりゃあ、本当ですよ。ウソなら、何のための打ち合わせですか、ハハハ」
焼けた肌に映える白い歯を見せてくまさんは豪快に笑い、ばつが悪くなった私も一緒になって小さく笑った。
「あ、いえ、そうですよね。ただ、お仕事として空の写真を依頼されたのは初めてだったので、感激のあまり驚いちゃって。実は、ついさっきまで、けっこう深いところまで落ち込んでしまっていたんです。カメラマンとして、このままでいいのかな、って。ですから、本当に嬉しいです。頑張りますので、どうぞよろしくお願いします!」
そういえば、バリの浜辺でひとり、未来への不安に押しつぶされそうな胸を膝に抱えていた時も、くまさんが隣にいてくれた。あのとき一緒に見た、太陽が空に昇ってゆく光を受けた海を、彼は覚えているだろうか。
「でもね、中山さん」
くまさんの低い声が、いつもより重たく耳に響く。それは私を少し緊張させた。
「やりたいと思っていた仕事が、向こうからやってくるなんて、そう起こらないことです。今回は、たまたまタイミングが合ったというだけです。これでうぬぼれてはいけない。自分がやりたいと思う仕事があるのなら、自分の手で、その仕事をつくることから始めなくてはいけないんです。よく、編集部にきますよ。作品を持ち込んで、自分を売り込みに。たくさんのアーティストの卵たちが。もしバリで、あのとき僕が中山さんの作品を見せて欲しい、と言っていなかったら、あなたにこの仕事はこなかった。本当は、あなたからいかなくてはいけない。仕事をつくりに、自分で動かなくてはいけない」
昼間、テラスで、スカートのほつれた黄色い糸に神経を集中させることで逃げた、三咲の言葉の意味を、今、私はくまさんの声の中で理解した。私は、くまさんの目をまっすぐ見つめたまま、深く頷いた。
「はい。その通りだと思います。私はそのことに、気づけていませんでした。分からない。本当は、気づいていたのかもしれません。でも自分で動いて相手に避けられたときのことを思うと怖くて、できなかったのかもしれません。これからは、もっと素直になって、自分から動いていきたいと、動いていこうと、今、すごく思いました」
「いやぁ、」
いつもの声のトーンに戻ったくまさんが、ふんわりと恥ずかしそうに笑った。
「偉そうに言ってしまいましたけど、それは、僕も分かります。きっと、みんなそうだと思います。でも、最後に中山さんに伝えておきたかったんですよ。中山さんはまだまだ若いし、これからどんどん頑張って欲しいので」
最後、という言葉が、飲み込んでしまった魚の骨のように胸にチクリと引っかかり、私は思わずむせてしまった。大丈夫ですか、とテーブルの上のお冷を私にすすめてから、水を飲んで呼吸を落ち着かせた私を見て、くまさんは微笑んだ。そして、テーブルの上で両手をゆっくりと組んでから、続けた。
<続く>


