第10章 age25 恵みの雨と土の香り(4)― くまさんと一緒に聞く雨の音は… ―
「実は、今回の企画で、中山さんと一緒に仕事をするのは、最後になると思います」
「…え」
なんで? 夢のような仕事が決まってドキドキ浮かれていた心臓が、ドクンと重たく脈打った。なんで? 胸が急に、苦しい。くまさんが私からそっと目線をはずしたのを見て、自分が眉間に力を入れすぎてしまっていることに気がついた。だけど私は、伏目がちに微笑んだくまさんの、その寂しげに下がった目尻から、視線を離すことができない。
「…いやぁ、4月から部署を移動することになったんですよ。次は写真を使う媒体ではないのでね」
そう言ってからくまさんは、私も耳なじみのある少女マンガ誌のタイトルを口にした。それから、アハハ、と明るく笑ったけれど、私は微笑み返すことができなかった。だって、確か、8年…。彼は、このライフスタイル誌『Blue』に創刊時から携わってきた編集者だ。『Blue』に対する彼の思い入れは相当なもので、色々な媒体で仕事をするフリーランスの私には理解できないほどの、一途で深い愛情だなぁと、いつも私は感心していたものだ。売り上げ部数が伸び悩んでいた時期には、まるで我が子を心配する父親のような顔をして対策を語っていた。彼が担当したわけでもない企画が話題を呼んだ時には、とても誇らしそうな笑顔を浮かべながら話していた。雑誌づくりのほんの一部を手伝わせてもらっているに過ぎない若手カメラマンの私にまで、真剣に…。
『Blue』に対する彼の情熱は、いつだって彼の口から、彼の目から、溢れていた。それなのに…、
「なんで?」
私の口から言葉がこぼれてしまった。
「…ですか?」
慌てて敬語を足した私に、くまさんは大きな肩を小さくすくめてまた、白い歯を見せた。
「編集者って、サラリーマンですからね。しかたないんですよ、人事の指示には逆らえません。それに、少女マンガは僕が今まで全く触れてこなかったジャンルなので、楽しみですよ。新しい世界、というかね。ハハ」
そんなの、ウソ。どうして、笑うの。
「アハハ、中山さんがそんな顔しないでください。別の編集者を紹介しますので、中山さんはこれからも、Blueをよろしくお願いしますね!」
私にそっと頭を下げた彼を見た瞬間、私は胸から込み上げてくる想いを抑えきれなくなった。私はとっさに右手を伸ばし、テーブルの上に組まれたくまさんの両手の上に置いた。男の人の両手を包み込むには足りなかった自分の手の大きさに、私ははっと我に返った。手を引っ込めなきゃ。すると、ふわっと、あったかい。私の手は、くまさんの両手にすっぽり包み込まれていた。
「ありがとう」
くまさんの声が聴こえる。恥ずかしくて私は視線を上げられず、視線を自分の膝に落とした。すると黒いタイツにポタポタと、涙が落ちた。そっと包まれていた右手が、強く握られた。ぎゅうっと、あつい。
「中山さんが、泣くことじゃないでしょう」
その声の優しい音色から、くまさんが微笑んでいることが分かると、またキュウッと締め付けられた胸が、私の目から涙をポロポロとおっことした。悲しいのはくまさんなのに、私が泣いてどうするの。もう一年以上流していなかった涙なのに、どうして今、落ちてくるの。
「…すみません」
私は泣きやもうと目頭に力を入れながら、左手で頬を濡らす涙のしずくを払い落とした。でも、ダメだ。くまさんの"オトナさ"が切なくて、彼ともう会えなくなることが寂しくて、彼の大きな手の平に握られた右手が、とてもあったかくて、私は、どうしても泣きやむことができない。涙をこらえることを諦めて、せめて泣き声を殺そうと、私は下唇をキュッと噛んだ。くまさんがまたギュッと、私の手を握った。
「ありがとう。優しいんだね」
熱い涙がドッと溢れて、頬をびしょびしょに濡らした。唇の皮が剥けたところに歯が当たって、ピリッと痛む。それでもグッと力を入れて、私は静かに、ボロボロ泣いた。優しい、なんて、言ってくれたの、あなたが初めてです。私は、いつも、悪者だった。
周りにいる人たちの話し声や笑い声の後ろに、雨が聞こえる。あの灰色の分厚い雲が、激しく泣いているのだろう。大粒の涙を、土にバシバシと、叩きつけているのだろう。だけどこの中で、私たちの耳に届くその音色は、屋根と壁越しにずいぶんと優しくなった、水の音。
恵みの雨だ。
「…優しいのは、あなただよ」
とても小さな声で私がそう言うと、くまさんがふわっと笑った空気の音がして、それからまた、雨の音がやさしく聴こえてきた。
***
希望と不安、喜びと悲しみが入り乱れる、旅立ちの前の心の揺れを綴った作家の文章が、私の撮った、雨を降らしそうで降らさない灰色の雲の写真の上にプリントされている頃、私はくまさんと結ばれた。最後の仕事の打ち上げに、と二人で食事をした、その夜に、彼の部屋で。
結ばれる、という言葉が、ピタリとくるようなセックスだった。胸の上に感じた彼の胸の重みは、私の心に、今まで感じたことのないような安心感を与えてくれた。今までの男たちが、私の体の中に入るたびに私の心の中にひとつ、新たな感情??迷いだったり、息苦しさだったり、寂しさだったり??を注入してかき乱していたとするならば、くまさんは、私の体に入ることで、私のなかで複雑に重なり合った感情を、ひとつずつ差し引いてくれているようだった。彼のずっしりした体の下敷きになった私の胸の中は、その重さと反して、スーッと軽くなっていった。
結ばれた後で私は、ストンと、地に足をつけたと思った。空を見上げる時、私はいつもどこか死にたいような気持ちでいて、遠くの空に引き付けられるように、足が宙に浮いていくような感覚を感じていた。それと間逆の、幸福感。私はなんだか、安心して生きていけるような気持ちになった。そしてすぐにとろんと、眠りに落ちた。
重たい瞼をうっすら開けると、朝日が、ブラインドの隙間にスーッといくつもの白い横線を入れていた。私は、隣で眠っている彼に寄り添って、起こさないようにそっと、彼の胸に頬を乗せた。彼の肌は、懐かしい香りがした。たとえるならば、大粒の雨に恵まれた後の、湿った土の香り。
するとまたとろんと、瞼が落ちた。
夢を見た。中学校の制服姿の男の子が、25歳の私に「ごめんね」と甘い音色で謝ってくれていた。「もう大丈夫だよ」と、私はその男の子に微笑みながら答えていた。
<続く>


