第10章 age25 恵みの雨と土の香り(6)― 離婚したという三咲の家に向かったのあだが… ―
いつもの三咲の口調に、調子の狂った私は口ごもってしまう。
「その…」
「…あぁ。すぐかけ直すわ」
コンビニでタバコを買っていると、左手で握っていた携帯がブルブル震え、デジタル音が店内に響きだした。私は急いで右手に持っていた小銭入れから320円を探し出してカウンターの上に置くと、ピアニシモの箱を受け取ったその手で通話ボタンを押した。携帯を肩と耳のあいだにはさみながら、外に出る。
「もしもし」
「あんたがどんなにタイミング悪くシッター辞めたか、やっと分かった? 謝罪の電話かしら?」
三咲のハハ、と乾いた笑い声を聴いてから、私はタバコをポケットに突っ込み、空いた手で携帯を持ち直した。
「…何も知らなくて、私、すみません」
目の前の大通りには信号待ちの車が列を成し、白いライトが東京の夜を照らしている。今、この景色をそのまま写真に収めたとしても、季節が冬だと伝わるだろう。冷たく乾燥したこの空気は、冬独特のグレー色をしている。三咲は、何もしゃべらない。
「私、シッターやりましょうか? 週1くらいでなら、なんとか」
「光は、里中が連れてっちゃった」
「え?」
何故か私は、子供は三咲の元にいると勝手に思い込んでいた。
「あんたがシッター断ったからよ」
思わず唾を飲み込んだ私に気付いたのか、すぐに、
「嘘よ。びびった?」
三咲の悲しい笑い声に、私は思わず眉間に力を入れた。
「師匠は、それでよかったんですか?」
「仕方ないじゃない。光が、私よりあいつになついてたんだから。私が産んだのに、ね。あんなに苦しんで産んでやったのに、生まれてからちょっと時間を多めに過ごした奴のほうになつくなんて、ね。ガキって薄情だわ」
三咲がちょうど離婚した頃、シッターを辞めると告げた私のことも、薄情だ、と彼女は言った。鼻の奥がツンと痛み、私はまた眉にグッと力を入れた。言葉が出ない私の代わりに、三咲が続ける。
「そもそも、長いあいだ師弟関係だった里中と私が、うまくいくはずなかったのよ。男女が逆なら、問題なかったのかもね。男が羨むほどのキャリアを築いた女が、罰せられる世の中よ。理不尽だわ」
寒さと悲しみとで細かく震えはじめた唇をなんとか動かして、私は言った。
「…師匠の、師匠の仕事は、私の、憧れです」
三咲はフンッと鼻で笑い、
「あんた、私の写真嫌いなんじゃなかったの? 里中に聞いたわよ、この薄情者。でも、私はあんたの写真、嫌いじゃないわよ」
ヒリヒリと痛むほど冷えた頬に、温かい涙が一筋、音もなく伝う。空を見上げると、深夜なのにネオンの光で雲がハッキリと見える、星の見えない夜空。車のクラクションに驚いて視線を下げると、男女二人乗りのバイクが目の前で留まり、カップルがヘルメットを取りながらコンビニに入っていった。
「じゃあね、中山。私、今デート中なのよ」
「じゃあ、また…」
「空しさって、男の体でしかぬぐえないって、あんたにも分かるでしょ? じゃ」
私の答えも待たず、三咲は一方的に電話を切った。
携帯をポケットに入れ、タバコの箱を取り出すと、カタンッとアスファストを打つ音がして、何かが落ちた。リップクリーム。去年の冬から、入れっぱなしになっていたんだ…。私はそれを拾わずに、反対側のポケットからライターを取り出して、タバコに火をつけた。煙を深く吸い込んで、細い煙を吐き出すと、グレーの空気の上にスーッと白い、線ができる。
もう二度と耳に入ることはない、声変わりしたばかりの少年独特の不安定な声で、昔、聞いたことがある台詞が蘇る。
<続く>


