第11章 age26 天の川(3)― シュウと会ったことで心乱されたのあは… ―
冷たい水で、流してしまいたい。体についた汗を、シュウを。髪に残る、ホテルのシャンプーの香りを。ぜんぶ、早く。やっとドアが開いたエレベーターに駆け込んで、5のボタンを押す。私をじらすようにゆっくりと、1フロアずつ光を移動させる目の前のボタンを見つめながら、私はバッグの中をかき混ぜるようにして、指で鍵をたぐり寄せた。
ドアノブに鍵を差し込み、右に回すと、カチャッ。その予想外の感触に指が止まった。鍵を開けようと思って、逆にロックしてしまったのだ。鍵をかけずに家を出た覚えはない。くまさんが来ている。一瞬動揺してしまった胸に空気を送りこむ暇もなく、カチャッ。鍵が、ドアの向こう側からアンロックされた。
「おかえり」
ドアが少し開いて、くまさんの声がした。ドアの隙間からエアコンに冷された空気が流れてきて顔に当たった。私は、あわてて笑顔をつくろうと努力しながら、ドアを押し開けて部屋に入った。私は微笑むことを諦めて、くまさんに背を向けて玄関に腰を下ろし、サンダルに手をかけた。パチン、パチン、と両足首に巻きついたストラップのボタンをはずしながら、私は明るい声をだした。
「来てたんだ! びっくりした。それより、暑いねー、今日。もう汗だく!」
声が少しうわずってしまったように思ったが、くまさんは特に気にとめる様子もなく、「今、パスタ茹でてるんだよ。早くシャワー浴びておいで」と言って、いつもの、スリッパを引きずるような音を立てながら、すぐにキッチンのほうへと戻っていった。
ユニットバスのドアを開けると、蒸し暑い夜の空気の中に、昼間のバスタイムの残り香が気だるく甘く、漂っていた。シュウの記憶に、私が刻み込んだ、私の体の香り。くまさんの鼻先に届いてしまわないようにと、私は慌ててバタンとドアを閉めた。
人工的な女の香りに蒸された小さなバスルームの中でひとり、裸になると、急に泣きたい衝動に駆られた。ついさっきまでは、くまさんに対する罪悪感なんて微塵も感じていなかったはずなのに、彼の目を見ることもできなかった。それなのに私は、どうしてシュウがあの後、突然メールアドレスを変えたんだろう、と考えることもやめられない。やり場のない気持ちが絡み合い、体の中をグルグルと回って、気持ちが悪い。泣きたい。
シャワーの代わりにすべてを洗い流せるくらい、たくさん涙を流したかった。大声を出して泣きわめきたかった。だけど、目を閉じてみても、1滴の涙すら出てこなかった。
蛇口をひねってシャワーを出すと、冷たい水が勢いよく私の頭を叩きつける。髪から、額から、頬から、ザーザーと流れ落ちる水に当たった体の皮膚がゾゾッと一気に鳥肌を立てる。ツンと立った乳首に、そこを舐めたシュウの横顔を思い出してしまう。すると、そうされることを強く望みながら、シュウに体を抱かれる前にだけ使う、ヒプノティックプアゾンのボディウォッシュを、生クリームのようになるまで泡立てて、体を磨いていた自分を思い出す。その時、私のココは、確かに満たされて始めていた。数時間後にシュウに抱かれる体を甘い香りに仕上げなくちゃいけない、という緊張感。自分の美しさが試される、リスクの香り。愛し合えば愛し合うほどに、くまさんからは薄れゆく、その"男"の匂い。それらが満たすココとは、私の中の"女"の部分。
もしかしたら私は、シュウとのセックスというよりも、シュウの"男"という性別を利用しているだけなのかもしれない。シュウという"男"を感じた瞬間、私は反射的に自分の中の"女"を感じることができる。シュウが私とのセックスに興奮しているのを確かめることで、私は女としての優越感に浸り、安心する。たった、それだけのことだ。
バカみたい。シュウとのセックスはいつだって、する前に自分の中で掻き立てる興奮のほうが大きくて、した後はいつだって、頭も心も体もぐったりと、重たい疲労感で埋まるだけ。
もう、疲れた…。
疲れ、果てた…。
水から湯に代わったシャワーに打たれながら、私は赤いボディウォッシュのビンの横にある石鹸をつかみ、そのまま肌にこすり付けた。心地よい湯気の中の爽やかシャボンの香りが、少しずつ、私の心を落ち着かせてくれる。
<続く>


